記憶についてのあれこれ 96 <天然痘>

「後日また続きを考えて書いてみますね」と言ったままになっている記事が多く、書く書く詐欺になってしまってすみません。


朝、目が覚めるとふと今日書きたいことが浮かんでくるのですが、いざパソコンの前に来ると一行も書けないことがあります。
そんな時には、ブログのテーマになりそうな単語のノートをパラパラと眺めると、「あ、これについて書きたい」と意欲がでることがあります。


今日も眺めていてふと目についたのが「天然痘」でした。
いつ頃、何がきっかけでこの単語が思い浮かんでノートに書き込んだのか、全く記憶にないのですが。


<種痘を受けた痕がある>


私は子どもの頃に受けた種痘の痕が、両肩にあります。


現在のように注射針でうつ予防接種なら痕は残りませんし、BCGのスタンプ式の痕とも違います。
大きなかさぶたができてなかなか治りにくかった傷痕のような感じです。


この予防接種を受けた時の記憶はかすかにあって、シャーレのような容器に入った薬液をメスのような針をつかって肩に切り込んでいくような感じでした。


両肩にあるので、2回は受けたのでしょうか?


予防接種ではないのですがツベルクリン反応を受けるといつも強陽性に出るので(そのために私の肩にはBCGのスタンプ痕がないわけですが)、あの痒みと発赤については記憶にあるのですが、この種痘の後はどんな感じだったのだろうという記憶は全く残っていません。


1970年代終わり頃に看護学生になった時には、ちょうど1980年のWHOによる天然痘根絶宣言が出された頃でしたから、教科書では「感染症の歴史」の一部の扱いでした。


ですから具体的に、種痘は何歳で何回実施するのかという方法も学んだ記憶がありません。


少し検索してみましたが、もう過去の予防接種になってしまったのでしょう。
天然痘についての説明はいくつもあるのですが、種痘の具体的な実施時期については見つかりませんでした。


1960年代の私の母子手帳には、百日咳や腸チフス・パラチフス、そして当時世界中で求められていたポリオのワクチン接種記録が残っています。


そして、種痘の記録もありました。
初回は生後半年から1年の間のようで、「接種方法」は「切皮乱刺」とあります。そして1週間後にもう一度、医師の診察を受けてその結果を「善感・不善感」と判定するようです。


第2回の接種は、「小学校入学前6ヶ月以内」となっています。
私の母子手帳には実施記録が残されていないのですが、両肩に痕があるので2回目もしたのでしょうし、かすかに残るあの記憶は小学生になる直前の記憶だったのでしょうか。
まあ、子どものころの記憶は周囲の人の話で作られて行く可能性もあるので、本当の記憶かどうかはわからないのですが。


国立感染症研究所「天然痘のワクチン接種(種痘)」というスライドを見ると、現在でも二叉針での接種のようです。


そして3週間ぐらいかけて痂皮ができていくようなので、子どもが気になって掻きむしったりしないように気をつけるのは、親にとってもたいへんだったのかもしれませんね。



<smallpox終焉の地域差>


看護学生の時には天然痘についてはほとんど学んだ記憶がありません。
まあ、予防接種で多くの小児感染症がコントロールされた時代に入っていたので疾患の恐さをリアルに感じられず、教わっても頭に入ってこなかったのかもしれないのですが。



天然痘に関しては、名前とその歴史だけが記憶に残った疾患でした。


ところが、1980年代半ばに海外医療援助に参加した時には、まだ「smallpox」という英語名はそこかしこで聞きました。


国立感染症研究所「天然痘(痘そう)とは」にはこう書かれています。

1958年世界天然痘根絶計画が世界保健機構(WHO)総会で可決され、常在国での100%接種が当初の戦略として取られた。しかし、接種率のみを上げても発生数は思うように減少しなかったため、「患者を見つけ出し、患者周辺に種痘を行う」という、サーベイランスと封じ込め(surveilance and contrainment)に作戦が変更された。その効果は著しく、1977年ソマリアにおける患者発生を最後に地球上から天然痘は消え去り、その後2年間の監視期間を経て、1980年5月WHOは天然痘の世界根絶宣言を行った。その後も現在までに患者の発生はなく、天然痘ウイルスはアメリカとロシアのバイオセイフティーレベル(BSL)4の施設で厳重に保管されている。

私がソマリアに行った頃、そのわずか10年前はまだ天然痘に感染する人がソマリア国内でもいたのですね。


根絶宣言から数年たった頃はまだ、smallpoxに対する警戒感があった時代だったのだと、少し記憶がつながりました。


<種痘接種の始まりについての一文献>



天然痘を検索していたら、「歴史地理学」という雑誌なのでしょうか、2001年に掲載された「牛痘種痘法導入期の武蔵国  多摩郡における疱瘡による疾病災害」という論文が公開されていました。
「はじめに」にこんなことが書かれています。

 本稿で取り上げる疱瘡(天然痘、痘瘡、smallpox)は、高熱を発し、水疱性の発疹が顔から四肢に広がることを主症状とする。疱瘡の病因は天然痘ウイルスである。患者の飛沫によって空気感染*することが多く、水疱液や瘡蓋の接触によって感染する場合も見られる。日本では1973年を最後に疱瘡患者が消滅した。

(*空気感染ではなく、飛沫感染のようです)

 飛騨国大野郡宮村にある浄土真宗往還寺の過去帳の検討結果によれば、明和8(1771年)から嘉永5(1852)年までの82年間に死亡が確認できる6489人のうち13%が疱瘡によるものであり、病名が判明する死因の1位を占めている。疱瘡による死亡者のなかで数え歳2歳までの乳幼児が30%を占め、これに10歳までの小児を加えると90%を越える。文化元年(1804 )年には1〜5歳の年齢階層人口337人の20%が疱瘡によって死亡した。明治に入っても、東京府下における疱瘡患者が2000人を越えた明治25(1892)年、同29年、同30年における致命率は、それぞれ23%、29%、34%に達している。牛痘種痘法以前に有効な予防法、治療法のなかった疱瘡は、乳幼児にとって死亡する危険性の高い恐るべき伝染病であった。

天然痘根絶宣言が出される1世紀前の様子がわかる文献でした。
直接リンクはできないのですが、関心のある方は上記文献名で検索してみてください。





「記憶についてのあれこれ」のまとめはこちら