現場の狂気

こちらの記事に書いたように、私は思春期以降、考え方も生き方も違う存在として父とはとても距離を置いてきました。


最初に父への反発を感じたのが、「あの戦争(第二次大戦)に、なぜ反対しなかったのか」という点でした。
反対するどころか軍人になることを選び、中国へ行ったことが、私には理解できなかったのでした。


「イデオロギーに入り込むな」と教えるのに、父はあの戦争を決して第二次世界大戦とは呼ばず、「大東亜戦争」と言い続けていました。
それも理解できなかったのです。


父との決裂が決定的になったのは、「あんなこと(慰安婦)はどこの軍隊もやっている」の一言でした。


ああ、あと数才若い人がお父さんだったら私はこんなに父と思想対決に苦しまなくて済んだのに、と同級生のお父さんとは一世代違う、大正15年生まれの父を持った運命を呪っていました。


ただ、心のどこかでは「なぜあの時に反対しなかったのか」と言った言葉が、将来、自分にも降ってかかってくるのだろうという漠然とした不安がありました。


<罪悪感を直視するからこそ生かされる道がある>


父もまた心のどこかであの時代に生まれた運命を悲しんでいたのではないかと、最近は思うようになりました。


時代の波にあらがうことがどんなに難しいことか。


あるいは20代、30代のころは理想に燃えて何かを信じ込みやすく、またそういう自分に自信を持つ年代であることを、自分が経験したことでようやく父の態度を理解できるようになってきたのかもしれません。


そして自分が信じたことが正しいと突き進んだ結果、他の人に危険な状況をもたらしても、なかなかその罪悪感を直視することは難しいのだろうと。


だから皆で顔を隠し、主体を消し去り、責任主体がどこにもないまま、時が流れて行くのかもしれません。


罪悪感を直視したら自分自身の存在が否定され、潰れてしまう可能性があるほど恐ろしい前途が待っているかのようです。


私も父と同じ時代に生きたら、やはり自分が生きるために自分がしたことから目を背けたと思います。そして自分が選択したことは間違っていなかったと思い続けたことでしょう。


ところが、ちょうど1990年代から医療にも取り込まれたリスクマネージメントの考え方で、私は自分を生き返らせる発想を知りました。
「医療事故もその個人を責めるのではなく、システムを見直して再発予防につなげる」


もちろん、自分の起こした過ちは消し去ることはできませんが、過ちを認めることでその過ち自体をよりよいシステムに生まれ変わらせることができる道があることは、どんなに希望の光となることでしょうか。


<現場の狂気にはあらがえない>


いくつかの職場を経験して思うことは、現場というのは気分や雰囲気にかなり左右されやすいものなのだということです。


少し強い人がいれば、その人の発言にひっぱられます。
「いや、そこまでしなくても」と思っても、そういう声はなかなか出しづらいものです。
強い人というのは、往々にして勉強熱心で、いろいろな研修会やら本から「新しい知識」を吸収するのに長けていますから、常識的に「そこまでしなくても」と見えている人は、反対に「不勉強な人」とみなされやすいものです。


そういう強い人がいることで、「なぜやらなかったのか」と責められるのではないかというプレッシャーが、現場には発生します。
責められたくないから、本当はしたくないことでもしてしまう。


してもしなくても結局はかわらないことでもしてしまう。
あるいは、しないほうがよいことまでしてしまう。


時に狂気のような雰囲気で。


出生直後から哺乳瓶で糖水やミルクを与えないとか、分娩や帝王切開直後からの完全母子同室とか。


なかなかそういう雰囲気に立ち向かうことはできません。


私ですか?
一時期は、「自然なお産」や「母乳」でそういう雰囲気を病棟に与えていたかもしれないと、反省しています。


今は、反対に、そういう雰囲気になかなかあらがえないでいることに悶々としています。


これだけカンガルーケア(母子早期接触)や完全母乳での事故がニュースになっても、それを知っている人が産科スタッフの中でも少ないことに驚いています。
まあ、ホメオパシーの時もそうでしたが。



そして、以前よりも「完全母乳」という言葉を使うお母さんが微妙に増えて来ている印象です。


本当に鵺のような社会のモードと現場の狂気には、リスクマネージメントというのはなかなかわかりにくいのかもしれません。


第二次世界大戦の前後の社会の雰囲気も、こんな感じだったのかもしれませんね。