昨日の記事で「AはBであるが、BはAではない」と書きながら、思い出したのが今日のタイトルです。
なぜそれが、「数字のあれこれ」なのか。
私が数学が苦手になったのは、高校1年で数学の担任になった先生がきっかけでした。
話し方がはっきりしなくて、授業を聞いてもよく聞き取れなかったのでした。
その先生の授業の中で唯一といってもよいほど記憶にあるのが、今日のタイトルです。
当時は、何でこんなことを数学の授業で習うのだろうと、理解できませんでした。
数学というのは、数字と方程式などを学ぶものだと思っていましたから。
その後、折りにふれ、その先生とこの言葉が思い浮かぶのですが、40年ほどたってようやくこれはとても大事なことを教わっていたのではないかと感じています。
ええ、今もって数学はチンプンカンプンなので、素人の思いつきなのですが。
<論理的帰結>
「カエルは動物だが、動物はカエルではない」
これをどうやって調べたら、あの高校時代の教科書に書かれていた内容にたどりつくのだろうと、試しに「AはBだが、BはAではない」でググったところ、なんとすぐわかりました。
そうか、論理的帰結ということだったのですね。
Wikipediaの説明の中に、「全ての物体には質がある。コーヒーテーブルは物体である。従って、コーヒーテーブルには質量がある」といった例をあげて以下のように書かれています。
この形式の主張はいくらでも作れるが、前提が真で結論が偽となるような例は出てこない。つまりこの主張はその論理的形式が本質的に演繹的妥当性を持つのであり、その特徴を以下のようなテンプレートとして抽出できる。
全てのFはGである。
aはFである。
従ってaはGである。
ああ、なるほど。これを教えるために、「カエルは動物だが、動物はカエルではない」の一文を教わったのですね。
<もう一つの、数学的な考え方>
20代の頃から、犬養道子さんの影響を強く受けて来たことをあちこちで書きましたが、数学についてもずっと心の中に残っている話があります。
犬養道子さんに数学を教えていた学者が、犬養さんに向かって言ったことが書かれていました。
「あんたのあたまはごちゃごちゃしているからダメだ。もっとすっきりと考えるようにしなければ物事をつかむことはできない」
たしか、そんな話だったと思います。
犬養道子さんが感情を書き綴るような日記を書かなかったことにも、影響した一言だったのかもしれません。
「カエルは動物だが、動物はカエルではない」
「あんたのあたまはごちゃごちゃしているからダメだ」
この二つを合わせて考えるようになったきっかけが、ニセ科学の議論を知ったことでした。
2009年頃のkikulogのコメント欄には膨大なコメントが毎日のようにありました。残念ながら、今はコメント欄は読めないのですが。
最初は、読むだけでも頭がおかしくなりそうでしたが、だんだんと意見の違いを読み分けられるようになってきました。
一見、正しそうな意見でも、あるいは科学的・専門的な用語で圧倒されそうな意見でも、「カエルは動物だが、動物はカエルである」に見えるような意見もありました。
それに対して、平易な言葉でもきちんと本質をつかんだ意見を書かれる方々がいらっしゃいました。
その差は何か。
感情や信念をできるだけ切り離し、全体から物事を見る訓練をしているかどうか。
そんなあたりかもしれません。
高校の数学の授業で、けっこう大事なことを学んでいたのですね。
苦手になったのは、先生の教え方ではなく、私の頭がごちゃごちゃしていたのだと反省するこのごろです。