ケアとは何か 16 <私のケアの原点のようなもの>

この記事は、もう数ヶ月ぐらい前に書き溜めておいたものです。
書いたものの、遷延性意識障害の患者さんのことがうまく伝わるだろうか、私の自己満足の記事になっていないだろうかと記事にするのをためらっていました。


昨日、こんさんから息子さんがご自宅に戻っていらっしゃったことを教えていただき、この記事を思い出したのでした。


私が初めて接した意識障害の方々は植物状態だったので、人工呼吸器がなくて自発呼吸がありました。
こんさんの息子さんは人工呼吸器が必要なまま、ご自宅に戻られました。
新卒の看護師の私は緊張して患者さんの全身の観察をしケアーをしていたのですが、人工呼吸器をつけながらの在宅介護は私の経験の比にならないほど、御家族にも緊張の連続ではないかと思います。


そして、私は当時3交代の勤務でしたから、8時間で緊張から解放されました。
でも、在宅介護の方はずっとその緊張を保ち続けなければなりません。息抜きに外出をしても、その間も緊張と責任感から解放されることはないのではないかと思います。


御家族の「自宅で世話をしたい」思いを大事にしながらも、「自宅のような介護の場」が広がらないかなと思っています。



<私のケアの原点のようなもの>


1980年代初頭、新卒看護師として配属されたのは、外科系の混合病棟でした。


その病棟には、遷延性意識障害の患者さんが長いこと入院されている部屋がありました。


Wikipediaには1976年に日本脳神経学会が「遷延性意識障害」を定義したとありますが、一般的には「植物状態」とか「植物人間」といった言葉の方が使われていました。


今思えば、差別的な感覚のある「植物人間」という言葉が医療従事者の間でも使われていたことを考えると、こういう点でも医療の中の前近代的な感覚が変化するのには時間が必要だと思い返しています。


さて、看護学生の実習でもその部屋の担当になったのですが、その部屋の患者さんは3年から長い方で数年、その状態で入院していました。
年代は20代から40代の方で、若い方は交通事故、40代の方は脳梗塞が原因でした。


毎日、清拭や手浴・足浴、2時間ごとの体位変換、流動食の注入をしていました。
自発呼吸はあるのですが、痰を出すことはできませんから、気管切開をして痰の吸引やネブライザーの吸入なども大事なケアでした。


話しかけても反応はありませんが、時に眼球が動いたり、手足が少し動くことがありました。


来る日も来る日も同じケアが続きます。
家族の足も遠のき、洗濯物がたまった時には私たちが代わりにすることもありました。



でも、私も他のスタッフもこの部屋がけっこう好きでした。
20代前半の頃でしたから、「患者さんをきれいにしてあげた」という自己満足の部分が大きいのですが、褥瘡をつくらずに、そして感染を起こさずに、また一日また一日と、その患者さんなりの健康を悪化させずにケアできたことに誇りのようなものを持っていました。


そして勤務中にふと時間ができると、誰ともなくスタッフがその部屋に集まって、患者さんに話しかけたり、おしゃべりをして息抜きをしていました。


休日には20代の女性らしく、街に出て買物や食事を楽しんでいた時にも、ふとあの病室を思い出しては生きている場の違いにめまいのような気分になることがありました。


でもそれは絶望感や悲壮感とも違って、あの病室を思い出すとちょっとホッとするような、なんとも不思議な気持ちでした。


患者さん自身はどう思っているのだろう。
こんな状態で生きたくないと思うのだろうか。
でもその答えを知りようもないのが、遷延性意識障害の方のケアです。


体が温かい限り、心臓が動いている限り、私たちが見守りますね。
そんな気持ちでした。


それはいつか自分がそうなった時に、そうして欲しいと思うことをしていたのかもしれません。



「ケアとは何か」まとめはこちら
「こんさんの話を聞いて下さい」
「再び、こんさんのコメントより」