つじつまのあれこれ 5 <助産婦は医療側になったりならなかったり>

「自然なお産運動」では、産婆や助産婦・助産師の立ち位置がその時の文脈によって、医療側の人にされたり、女性側の人にされたりします。



「産み育てと助産の歴史」の第2章「自宅で産んでいた人々〜農産漁村の体験者の語りから」も、それが顕著に描かれている印象です。



<産婆・助産婦〜医師より妊産婦死亡率の低下に貢献?>


第2章の「2. 女性たちがおかれていた背景」では、1944(昭和19)年の遠野市でのお産の話が書かれています。


「町からは医療者が存在しない村も多く、危険な状況に至ることもあった」と、3日間陣痛で苦しんだあと「実家からリヤカーで1時間半ほどかけて診療所に運ばれた」方のインタビュー内容です。

(診療所に運ばれて)私は意識不明になり、先生は「だいじょうぶなんだから、とにかく寝るなよ」といって、何回もぴたぴたと私の顔を叩いた。寝るとそのままいってしまうことがあるから、・・・先生がすぐ鉗子をもってきて、ひっぱり出したって、なかなか泣かない。両足をもってお尻をぴたぴた何回か叩いて、うわーんと泣いたよ。


読んでその状景を想像するだけで、動悸がしそうです。


その当時は、母体の外にひっぱり出すまで、赤ちゃんが生きているか死んでいるかもわからなかったことでしょうし、それ以前に、「お産にゼニをかける必要はない」という家族を説得して、鉗子分娩ができる医師のもとへ連れて行くことさえ大変な時代だったことでしょう。


たしかに、医師にかかれる人はごく限られた時代だったとは思いますが、この本では以下のように締めくくられていました。

この産婦が出産した昭和19(1944)年当時、遠野地方には産婦人科医のいる診療所はあったが、出産は基本的に自宅で行われており、何か問題があった場合に医師が患者を診るのが一般的だった。人口統計が始まった明治32(1899)年以降、新生児死亡率が最も高かったのは大正7(1918)年で1,000人中81.31人、現在のおよそ74倍にあたる。妊産婦死亡率が過去最も高かったのは明治32(1899)年で出産10万人あたり409.8人、現在のおよそ百倍にも上る。昭和25(1950年)にはその数は半数以下になっていたが、女性にとって出産は命がけの作業であったことは変わりない。出産をめぐる死亡率が格段に低下したのは、出産が施設へ移行し管理の主体が医師に移った高度経済成長期より、むしろ近代産婆が全国各地の家庭に入るようになった昭和初期であり、産婆が出産の安全性にもたらした功績は大きい。

強調した引用部分の直前の「女性にとって出産は命がけの作業であった」という一文も目が滑りそうになるほど、矛盾した内容だと思います。


何度かブログ内でリンクした、「我が国の妊娠・分娩の危険性は?」の「妊産婦死亡率の年次推移」を見れば、この一文は事実とはほど遠い解釈にすぎないと言えるでしょう。


そして、確かに産婆や助産婦も安全性に貢献はしたけれど、こちらの記事に書いたように、衛生や栄養の知識を広げ、家庭分娩に医師と医療技術を引き入れる役でした。



「産科専門医の鉗子分娩術には目を見張り」「誠に遺憾なのは近くに産婦人科医がいないこと」。
当時の産婆や助産婦の気持ちをなぜ、「自然なお産運動」の中では素直に理解してもらえないのか不思議ですね。



ところがこの章では、その産婆や助産婦でさえも「いない方が自然なお産ができた」かのような立場としても描かれるのです。
そのあたりは次回に続きます。


そのつじつまの合わなさは、どんな結論を求めているのでしょうか。



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