カンボジアの話題があったので、そうだまだ書きかけのこの記事があったと思い出しました。
だいぶ前になりますが、NHKのニュース番組の中で、カンボジアのポルポト時代の加害者と被害者の和解プロジェクトを紹介していました。
ニュースを見た印象としては、まだまだ人の気持ちが変化するには時間が必要なのではないかというものでした。
半世紀とか一世紀ぐらいの長さの。
そのニュースでは、村の住民から無視され続けて辛いと訴える女性の話から始まりました。
その女性は、ポルポト時代に村の多くの人を強制労働や再教育キャンプへ送る密告役でした。
当時はまだ10代だったその女性は、おそらく密告役にならない限り生き延びることができないほど追い詰められていたことでしょう。
私がその立場だったら。
あなたがその立場だったら。
密告役にはならないと言い切れないのではないか、そんな永遠の命題とも言える状況です。
ポルポトの時代が終わり、その女性が住んでいる家の道をはさんだ向かいには、その女性の密告によって家族が連行され殺害された人が、その女性を許す事ができずに住み続けているのです。
ああ、これがあのカンボジアの現在の姿なのだと思いました。
その和解プロジェクトのリーダーは30代前後の女性でしたが、加害者と被害者の話し合いの機会を設けて、「過去と決別」して和解してもらうことを目的としているとのことでした。
おそらくポルポト時代が終わった後に生まれ、カンボジア国内の分裂に心を痛めながら育った年代と思われるので、和解を求める気持ちが強いのかもしれません。
そのプロジェクトを始めてどれくらいの人数に関わったのかはわからないのですが、番組の中では「和解に至ったのは2件」だけでそのプロジェクトがなかなか難しいことを伝えていました。
<「友好」から「慰霊」にも70年の月日が必要だった>
ちょうどこのニュースと前後して、天皇がフィリピンを訪問しました。
宮内庁のホームページに「天皇皇后両陛下フィリピンご訪問のおことば」が掲載されています。
それを読むと皇太子だった1962(昭和37)年に、昭和天皇に代わってフィリピンを訪問しており、その時の様子をこのように話されています。
1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えてくださったマカバカル大統領夫妻を初め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは私どもの心に今も深く残っております。
1980年代でもこちらの記事に書いたように、東南アジアでの日本に対する感情には厳しいものがありましたから、1962年当時、皇太子としてフィリピンに降り立つ時の気持ちはいかばかりだったことでしょう。
そしてこの時には「友好」目的であったものが、ようやく天皇として以下のような想いを伝えることができるまで、さらに半世紀の時間が必要だったといえるかもしれません。
フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問をはたしていきたいと思っています。
カンボジアの場合は国内での革命失敗による深い傷跡であって、他国間の戦争とはまた状況が異なるのですが、自国内で憎しみあいながら隣り合わせに生きている状況が変化するにはまだまだ時間が必要ではないかと、この「慰霊」のニュースからも思います。
<「カンボジア・0(ゼロ)年」>
冒頭のニュースを見ていて、「あ、あの本をもう一度読まなければ」と思い出しました。
「カンボジア・0(ゼロ)年」(フランソワ・ボンショー著・北畠霞訳、連合出版)です。
初版は1975年に出版されているのですが、1980年代半ばにインドシナ難民キャンプで働いていた時に、唯一といってよいほどあのカンボジアで起きたことを知ることができた本でした。
でも20代半ばのその当時は、あまりの壮絶さに恐怖と吐気を催しながら読んだので、むしろ内容があまり記憶にないのです。
書店で目にするたびに、まるでやり残した宿題かのように「もう一度読まなければ」と思いつつ、なかなか手が出ませんでした。
ブログでカンボジアのことを思い出して書くうちに、「買わねば」と購入しましたが、やはりなかなか開けませんでした。
歴史の当事者にも時間が必要ですが、その歴史を学ぶ側にもまた時間が必要そうです。
「気持ちの問題」まとめはこちら。