水のあれこれ 52 <東京砂漠>

都内のガイドブックに東京都水道歴史館を見つけました。


お茶の水駅から順天堂大学の間を通って、数分ぐらいのところにあります。
以前、一時期よく乗降りしていた駅周辺なのに、こういう歴史館があることも、そしてそこが本郷給水所であったことも知りませんでした。


これはぜひ行かなければ、と先日訪ねてみました。


その展示の中で見つけたのが、今日のタイトルです。

1960年 東村山浄水場開始
1964年 多摩川系大渇水(東京サバク)
1965年 淀橋浄水場廃止、武蔵水路通水開始
1967年 八木沢ダム完成


展示ではカタカナで「サバク」になっていましたが、「東京砂漠」と聞いて思い出すのは1976(昭和51)年の内山田洋とクールファイブの歌だけでした。
まさかもっと違う意味が私が幼児の頃にあったなんて、この言葉を知ることができただけでも歴史館に来た甲斐がありました。


<「東京砂漠」とは>



東京都水道局の「東京水道100年のあゆみ」に、この東京砂漠について書かれていました。

昭和30年代後半から40年代には、高度経済成長に伴う首都圏への産業と人口の集中、下水道の普及率により、配水量は毎年日量20〜30万㎥増加した。
昭和32年には明治23年以来の水道条例に従って水道法が施行され、給水の清浄、豊富、低廉を確保することが規定されたが、逆に、この時代から水道経営は、需要の増大、水源開発の遅れ、水質汚染への対応、財政の悪化と苦しい時代を迎えた。
昭和33年からは、水源の不足に加えて、毎年のように渇水が起こり、昭和38年からは多摩川の長期渇水が続き、そのピークは「東京砂漠」といわれた東京オリンピックが開催された昭和39年である。

当時は、各浄水場の給水区域を連結する施設が少なく、多摩川を水源とする東村山浄水場などの給水区域のみ給水制限されていた。東京オリンピック開催を目前に控えた昭和39年8月、利根川水系多摩川水系を結ぶ原水連結菅が完成し、荒川の余剰水を東村山浄水場へ緊急導水することにより、東京の危機を回避することができた。

このように、昭和30年代以降、東京をはじめとする大都市地域で深刻な水不足が発生し、水の供給問題は国家的な課題となったため、昭和38年「水資源開発促進法」、「水資源開発公団法」が制定された。この二つの法律に基づき、昭和37年には「利根川水系における水資源開発基本計画」(通称フルプラン、昭和49年に荒川水系も追加が策定され、国に代わり事業を実施する水資源開発公団が発足した。

この大渇水の記憶はないのですが、それでも子どもの頃には断水がけっこう頻繁にあったように記憶しています。
現在でも夏場は各ダムの貯水率や節水の呼びかけがニュースになりますが、断水になることはなく本当にありがたいことだと思います。



30代の頃に多摩川水系に興味が出て、玉川上水やさらに上流の多摩川小河内ダムまで歩いていました。


その後、当時行き来していた東南アジアのある地域にもダム建設の問題があったことや、国内でも公共事業への批判が高まっていたこともあって、偶然に知り合った村井吉敬氏やその仲間の方たちと八ッ場ダム建設予定地奥三面ダムなどあちこちのダムを見て歩く機会がありました。



「自分が立ち退かされる当事者だったら」「ダムによって生業を失ったり、自然環境を失うことに直面する当事者だったら」
当時は、水資源開発の恩恵で便利さを享受していることへの罪悪感のほうが強くありました。


ものごとの見方を変えたきっかけがふたつあります。
ひとつは折り合いをつけるという言葉を知ったことでした。


もうひとつは、2011年3月11日の東日本大震災と翌日の東京電力福島第一原子力発電所の事故でした。
あれだけの大地震でも断水することがなかったことと、放射性ヨウ素による水道水汚染の可能性という想定外の緊急事態にも対応がされて、水道水を使い続けることができたこと。



「東京砂漠」といわれた時代があったことを考えると、わずか半世紀でこんなにも強固な水道を整備して来たことは本当にすごいと、素直に感動するのです。




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