記憶についてのあれこれ 108 <人海戦術と人民服>

最近、中国籍の方の出産がぼちぼちと増えて来た印象があります。正確な統計はわからないので、あくまでも私の周辺の話ですが。


1990年代初頭にも、中国の方のお産が増えました。中国で暮らして来た残留孤児の方々が帰国されてきたからです。


しだいに、そういう方々も日本語での対応になった頃、今度は別の理由で日本へ来て出産される方がたまにいました。
一人っ子政策がまだ厳しかった頃、二人目以降の子を日本で出産するという方でした。
それが違法で何か抜け道のようなことがあるのか、それとも日本で出産することで何かメリットがあるのか、言葉がわからない同士の会話ではよくわかりませんでした。


最近はそのどちらでもなく、日本に働きに来ていて出産というかたがぼちぼちいらっしゃいます。
街でも中国語の会話を日常的に耳にするようになりました。



<めまいのような感覚の理由>



私自身が片言の言葉で、日本以外のいろいろな場所で受け入れてもらって来たので、こうした一人の個人が国境を越えて行く変化はむしろうれしく感じます。


ただ、中国の方に対して感じる「めまい」のようなものを時々感じるのです。
あ、決して今日の記事の内容は「ヘイト」ではありません。
中国という国の歴史のイメージに対するめまいとでもいうのでしょうか。



唐突ですが、江戸の給水法」で「人海戦術」と書いたのですが、そうだこの言葉だと思いました。


私が30代だった1990年代までは、まだ中国と言えば「人海戦術」「人民服」の国でした。


たとえば、2009年に完成した長江の三峡ダムですが、着工した1993年頃にその工事現場の映像を見ました。
同じ頃の日本の各地のダム建設現場とは全く様相が異なり、重機はあるものの多勢の人がシャベルをもって掘削し、肩に土を担いで運び出していました。


まるで「近代的な機械は資本主義の罪悪の象徴」とした1970年代のポル・ポト政権下のカンボジアのようでした。


ただ、1989年に江沢民氏が主席になってからはそれまでの人民服一色ではなく、政府高官の背広姿も増え出した記憶があるのですが、これで中国の人も普通の服を自由に着ることができるのかなと少し安堵しました。


日本の河川と違って、対岸も見えないような巨大な川に人海戦術でダムを造るなんて、何十年かかるのだろうと思っていましたが、2009年には完成していたのですね。



2000年代にテレビで観る中国は、どんどんと近代化され大都市が建設されていました。
都内では1億円でも購入できそうもない、広いマンションに住む人たちが映し出されていました。
あの人達は10年ぐらい前までは人民服を着て、色彩の感じられないような生活をしていたのかと思うと、その変化にめまいがしそうでした。


でもまあ、日本も海外へ出稼ぎや移民を送る側であった時代はそう遠くない昔で、おそらく1950年代以前生まれの方々にはまだ記憶として残されていることでしょう。



私のように1960年代生まれになると、日本が経済的に貧しかった記憶は片隅にある程度で、新しくできた成田国際空港から意気揚々と海外へと飛び立つ世代でした。
あの頃の海外旅行が身近になった日本人をみて、きっと欧米の人たちは私が今、中国の方々の歴史に感じる近い感覚だったのかもしれません。


人海戦術や人民服の中国から現在の中国の急激な変化を見ると、日本の変化を追体験しているようでくらくらとめまいがするのかもしれません。





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