綿

綿は日常生活に欠かせない繊維ですね。
衣服のための繊維も種類が豊富になった現代でも、木綿というのは肌触りから他に代わるものはないのではないかと思います。


物のなかった時代のお産信州の産婆で紹介したように、現在に至るまでお産では綿は欠かせないものですし、医療現場でもアルコール綿として活躍しています。
「もしこの世に綿がなかったら」と考えると、どうなっていたのか想像もできないくらいです。


私が初めて、綿のようなものが実際になっているところを見たのは、東南アジアで暮らすようになった1980年代半ばでした。
数メートルほどの大木に、ほわほわとやや黄色みがかった綿の繊維のようなものがたくさんなっていました。


とても感動して「初めて綿の木を見た」と現地の友人に言ったら、「あれは綿ではないよ」と言われてしまいました。
たしかに社会科の教科書かなにかで目にした綿のプランテーションの写真では、人の腰ぐらいの背丈の植物だったような気もします。
「木綿」=「木になる綿」だと思っていましが、あれはまた別の種類のようで、その地域では見向きもされず、そのまま地面に落ちて風で飛ばされてなくなっていました。
「ああ、もったいない。集めれば敷布団の材料ぐらいにはなりそうなのに」
検索してみたのですが、あの木の名称はわからないままです。


通常、木綿と呼ばれているものは、「アオイ科ワタ族の多年草」から取れるもののようです。
バナナの木と同じ認識間違いですね。


本当に実物の「綿の木」を見たのは、それから数年後にしばらく東南アジアで暮らした時でした。
雨季が終わって雨がほとんど降らない乾季に、カラカラに乾燥した植物の先端にそれはそれは美しい白色の綿がなっていました。
花はハイビスカスに似ているとのことですが、まだ青々と育って開花していた頃はその植物に気をとめていなかったので気づきませんでした。


Wikipediaの「歴史」にこんな話が書かれています。

中世末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像した

1350年、ジョン・マンデヴィルは今となっては奇妙な話だが、「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が囲んで草を食むことができる」と書き記した(バロメッツ参照)。

さすがに1990年代ですから、私はそこまで妄想しませんでしたが、この時代の人が興奮する気持ちがわかるような、あのコットンボールがなっている情景というのは豊かさを感じさせる何かがあるのです。


ただ、あの頃は私自身がこうした輸出用作物の農場に対しては多国籍企業による搾取の象徴という受け止め方で罪悪感の方が強くありました。


もう一度機会があれば、あの綿の収穫期の風景を見てみたいなと思っています。
そして綿を育てる方々のお話を聞いてみたいものです。