反動から中庸へ 6 <子どもらしくというのはどういうことか>

私が看護学生だった1970年代終わりから80年代初めに、「母子保健」という言葉や児童福祉法母子保健法を学んだ頃は、すでに子どもは大切にされるべき存在であることが社会の前提になっていました。


たとえば母子保健法に書かれている目的や、私の母子手帳の表紙に記されている児童憲章も、私が生まれるずっとずっと前から日本の社会では当たり前のことだと思っていました。


ところが、ブログを書きながら出産や育児の歴史を行きつ戻りつしているうちに、こうした規範が社会に浸透したのはたかだか半世紀だったのだという思いが強くなりました。


まず、私が生まれた頃には児童憲章に基づいた児童福祉法はできていたけれど、母子保健法はまだなかった。
これは少々、ショックなことでした。
まだ、そんなレベルの社会だったのですから。


となると、両親が生まれ育った20世紀半ばまでの日本の社会のなかで、子どもというのはどんな存在だったのでしょうか。


それを追体験したのが、1980年代から90年代にかけて東南アジアやアフリカで暮らした時でした。


<幼児から家事や労働力の担い手になる>


1980年代前半、まだ当時は発展途上国と呼ばれていた国に初めて赴任して、我と彼の差にショックを受けました。
一番、心が痛んだのは、まだ小学生にもならない子どもたちまで労働力として働くことが当然のように求められていることでした。
学ぶことよりも働くことが優先され、時には働くことよりも武装集団に入ることさえも求められていることは、「動物園のあれこれ」の中でこう書きました。

5〜6才ぐらいになると水汲みや弟や妹の世話だけでなく、路上で物売りをしながら働かざるを得ない子どもたちがたくさんいました。学校に行きたくても、小学校でさえ経済的に通えない子どももいました。
少年兵として武装集団や民兵に入るしか、食べて生き延びる道がない状況にある子どもも多かったことでしょう。


私自身の不自由のなかった子ども時代の記憶と比較して、当時の私は「子ども達が子どもらしく生活できなければ」と強い感情に押されたのでした。


よくよく考えれば、私の兄も幼児の頃から私の子守りをさせられていたわけですし、両親世代はそれが当然という時代に育っていたわけです。


ところが、両親世代が子どもを育てる頃には、自分たちの「子どもらしさ」という価値観を大きく変えなければいけない時代だったことになります。
1960年代の私の母子手帳の表紙に書かれている児童憲章の、特に8から10について、両親の世代はどのような思いで受け止め、どのように子どもを育てようと変化したのでしょうか。


8. すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように十分に保護される。


9. すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境からまもられる。


10. すべての児童は、虐待、酷使、放任その他不当な取り扱いからまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。


<児童を酷使、放任しない社会へ>


幼児の頃には妹の世話をさせられた兄も、小学生になった1960年代半ばにはむしろ家事労働からは解放され、反対に「女の子」である私は当然のように家事の手伝いを任されました。


それでも、兄弟姉妹ともに両親からは勉強を頑張ることを期待され、家事の手伝いは勉強の妨げにならない程度でした。


1951年にできた児童憲章を改めて読み直すと、当時から「虐待」という言葉が入っていますが、この言葉を頻繁に聞くようになったのは1990年代頃ではなかったかと記憶しています。


どちらかというと、1960年前後に生まれた私たち世代は「酷使や放任」をしないことが時代の中で求められていたのかもしれません。
それが当時の社会が描いた「子どもらしさ」のイメージだったのかもしれませんね。


東南アジアでの「子どもらしさ」の衝撃的な体験は、貧困が理由というよりは、世界中で「子ども」に対する考え方の過渡期を迎えていた一面であったのかもしれないと、今は思えるのです。





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