今日の川の呼び名と場所がすぐにわかった方は、近隣の方か相当の川マニアの方ですね。
等々力渓谷なら、ああと思う方も増えるでしょうか。
先日、冬晴れの日に、「東京地形散歩」を参考にして谷沢川沿いを歩いてみました。
<30数年前の等々力渓谷>
等々力渓谷に初めて行ったのは、20才になる年の成人式の日でした。
レポートを書き上げなければいけなかったので成人式には出席せず、いえ、本当は成人式の雰囲気が苦手だったのでレポートを口実にしていたのかもしれません。
娘に振り袖を着せたかった母親はがっかりしていたようですが。
当時は1月15日が成人の日と決まっていましたから、あれは1月15日です。
お昼頃から、一人で等々力渓谷に行きました。
快晴でしたが、風があって凍えるような日でした。
最近では23区内でも氷が張るほうが珍しいのですが、あの日は、等々力渓谷内にある不動尊の滝の周辺が凍っていて、つららができていた記憶があります。
現在に比べると当時は真夏日や猛暑日が少なく、そのかわり冬はもっと寒かったのでしょうか。
30数年前の世田谷近辺はまだまだ農地もけっこう残っていましたが、大井町線沿線はちょっとおしゃれな住宅街のイメージでしたから、うっそうとした森に囲まれて「渓谷」があることに驚きました。
当時の私は、等々力渓谷というのは人工的に掘削して作ったのではないかと思っていました。
<等々力渓谷の地形と開発>
「東京地形散歩」では、著者が「『等々力渓谷』の名が広く脚光を浴びるようになったのは、ちょうどバブルの時代、昭和の終わりか平成のはじめ頃だったと記憶している」と書いていますが、私が行ったのは1970年代終わり頃です。
その頃には、すでに若い女性向けのガイドブックで紹介されていました。
著者と私は同世代なのですが、この「10年の差」はどこからくるのかなと興味深く、その一文を読みました。
さて、等々力渓谷に置かれているパンフレットには、こんな歴史が書かれています。
等々力渓谷を含む地域一帯は、昭和8年(1933年)に多摩川風致地区に指定されました。東京府の緑地計画の一部として、護岸と川沿いの遊歩道の整備事業に着手し、昭和11年に竣工しました。昭和32年(1957年)に風致公園として都市計画決定され、東京都が昭和36年から39年にかけて整備をしました。そして、渓谷沿いの一部を中心に昭和49年に世田谷区立等々力公園として開園しました。
なんと、私の両親の世代が生まれた頃に計画ができて、私が生まれた頃に整備が始まり、そして私の成人式の数年前に開園したという、気が遠くなる歴史ですね。
「地形・地質」には、「等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です」と書かれています。
たしかに、多摩川を渡る時に川に沿って高台が見えるのですから、その間を流れる川の付近に渓谷ができても不思議はないですね。
なぜ、私は等々力渓谷は人工的に掘ったに違いないと思い込んでいたのでしょうか。
もしかしたら、幼稚園児の頃に山の多い地域に引っ越して、再び都内に戻って来た時には関東平野全体が平坦に感じたのかもしれませんね。
関東平野もかなりの高低差があることを改めて面白いと思ったのは、10年ほど前にたまたま見た「タモリ倶楽部」と「ブラタモリ」の地形の話がきっかけだったように思います。
さて今回は、自由が丘駅から九品仏、尾山台へと歩き、そこから多摩川へと出て、谷沢川が多摩川に流れ込む場所を見てから、等々力渓谷沿いに歩いて、谷沢川が暗渠になる用賀駅付近まで歩きました。
その高低差をあらためて実感した約3時間のお散歩でした、と「ちい散歩」風に締めてみましょう。
そして、等々力渓谷を流れる川が「谷沢川」であり「たにさわ」と呼ぶことも、初めて知りました。
「散歩をする」まとめはこちら。