観察する 21 <胎盤の活用に思い至った観察>

10年ぐらい前から助産師の中に広がる不思議な世界にようやく気がついて、助産院や助産師個人のブログを定点観測し始めました。


周産期関係の本にも書かれておらず、また授業でも聞いたことがない「知識」がどこからどのように広がるのだろうと、不思議に感じていました。


たとえば、胎盤を食べさせる発想はどこで知ったのでしょうか。
クレオパトラ楊貴妃も食べていた」「子宮の収縮をよくする」「人間以外の動物は必ず胎盤を食べている」などは、どこを切っても金太郎のように書かれていました。
そんなに効果があるなら、なぜ人間の世界ではそうしなかったのだろう。
なぜ医療の中でその効果を見落として来たのだろう。
なぜ、助産師学校では教わらなかったのだろう。


そんな疑問とともに、どこを切っても金太郎のように同じ事が書かれているのは、どこか出所があるにちがいないけれど、それはどこなのだろうということが気になっていました。



まあ、社会というのは鵺(ぬえ)のように正体不明、変幻自在ですし、同じようなことを思いつく人があちこちにいるのだろうと思います。



<医学の中で発想が広がった?>


胎盤食を勧めていた助産師のブログでは、民俗学的な記述を根拠にしていた内容が多かったように記憶しています。
「昔のお産は」と同じく、「昔はこうしていた」と。


「プラセンタエキスの歴史」で紹介した、「プラセンタ療法と統合医療」(「日本胎盤臨床研究会 研究要覧 No.2,2006」)の「プラセンタ療法のアウトライン」を読むと、クレオパトラ楊貴妃が使っていたらしいという点では「確たる文献に基づいた史実ではない」と書かれていました。


韓国の古い医書胎盤について書かれた箇所があるようですが、それ以外、民俗学的な記録があったわけでもなさそうで、1920〜30年代にプラセンタ療法の始まるきっかけがあったと書かれています。

一方、現在我々が手にしているプラセンタは、旧ソ連オデッサ大学教授で眼科医であったV.P.フィラトフ(1875〜1956)が、1920〜30年代に研究を進めた組織療法に端を発している。

生体の組織を冷却などの厳しい条件下におくと不思議な力を発するようになることを発見し、その力の根源を「生物源刺激素 biogenic stimulant」と名付けた。そして角膜移植以外にウシの脳下垂体、皮膚、血液などで埋没療法を実験し、疾病の治療には胎盤を使うと最も高い成果が得られることを見いだしたのである。


この文献を読むと、むしろ移植医療の一端として胎盤の活用が始まったように読み取れます。
ただ、1920から30年代当時の医学や医療のレベルで、「効果」とはどのようなことだったのでしょうか。



胎盤は神秘的に映ったのだろうか>



日本の「胎盤医療の発展に大きな役割を果たした2人のパイオニア」の一人、三林隆吉博士のエピソートが書かれています。

三林博士は1938年から1961年まで京都大学産婦人科の第4代教授を努められたが、太平洋戦争の敗色が濃厚となった1943年(昭和18年)に、文部省が出した全国共同研究課題「乳幼児母性母*健」の分担共同研究者となられた。これは乳幼児や母体の栄養状態の改善を目標に文部省が全国の大学に発令した研究課題で、要するに戦争遂行のための人口増加政策の一環であるが、三林博士の脳裏に閃いたのがヒト胎盤の活用であった
(*おそらく「保健」の誤植と思われます)


食べられそうなものは食べるという話かと思ったら、全く違う発想でした。

ヒントになったのは、新生児は分娩後に臍帯を切った後は発育が穏やかになるという事象だったようで、博士の言葉に「新生児は分娩直後、臍帯切断によって胎盤との連繋を絶たれた瞬間、既に胎内に於ける様な急速な発育を停止している。たとえ如何なる好適な環境に置かれても、又、"ホルモン""ビタミン"はもとよりのこと、あらゆる既知の栄養物質を十二分に供給したとしても、最早胎内に於ける如き発育ぶりは到底望めない」という一節がある。

「新生児は分娩後に臍帯を切った後は発育が穏やかになるという事象」
どのような観察の積み重ねで、そのように感じ取られたのだろうと不思議に感じました。


まだまだ1970年代でさえ胎児はブラックボックスだったわけです。お腹の中では順調に育っていたのに出てみたら死産だったり仮死だったり、でもその理由もわからないままだったことでしょう。
もしかしたら、「胎盤にはすごい力がある」と観察したのかもしれません。



あるいは、まだ「早産」でさえ確定診断も治療もできなかった時代なので、生まれて来た新生児がペシャンコに見えたのと同じ感覚だったのでしょうか。




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