つじつまのあれこれ 10 <「予見可能」とは>

先日、「原発避難訴訟、国の責任認める 『津波予見できた』」というニュースがありました。

福島第1原子力発電所事故後に福島県から群馬県に避難した住民ら137人が国と東京電力に1人あたり1100万円(総額約15億円)の損害賠償を求めた集団訴訟の判決が17日、前橋地裁であった。原道子裁判長は請求の一部を認め、国と東電に賠償を命じた。「国は2002年には津波の到達を予見できた。国が事故を防げなかったのは違法」として国の責任を認めた。


全国20の地裁・支部で避難者ら計約1万2千人が起こしている集団訴訟で最初の判決で、原発事故をめぐり国の賠償責任を認めたのは初めて。東電も津波を予見できたと認定した。


原裁判長は判決理由で、02年7月に政府の長期評価が巨大地震津波原発敷地を大きく上回ると試算していた点などをあげ、「遅くとも02年7月から数ヶ月後の時点で、国は非常用配電盤を浸水させる規模の津波の到来を予見できた」と指摘。国には東電に対策をとらせれば事故を防ぐことが可能だった」と結論づけた


また東電について「常に安全側に立った対策をとる方針を堅持しなければならないのに、経済的合理性を優先させたと言われてもやむを得ない対応だった」と厳しく批判した。


主な争点は▽東電や国が津波を予見し、対策をとることができたか▽国の指針にもとづく東電から避難者への賠償額が妥当かーの2点だった。


東電や国は「02年7月の長期評価は科学的知見として不十分で、事故は予見できなかった」として過失を否定。国は「そもそも、東電に津波対策を命じる権限がなかった」とも主張していた。
(2017年3月17日 日本経済新聞


裁判や原発については全くのど素人なのですが、あの未曾有の災害を予見できたというのは後出しジャンケンだなあという印象が強く残りました。
一生に一度遭遇するかどうかの医療事故にびびっているので、あのレベルの津波まで予見可能とされるのであれば、医療にも同じように「不可能」を強いられることになるのではないかと、この判決の現実的な怖さがひしひしと感じられたのでした。


このニュースをどのように解釈したら良いのだろうともんもんとしていたところ、うさぎ林檎さん「シマウマさん(f_zebra)と考える司法が『津波の予見』を判断することは可能なのか?をまとめていらっしゃって、頭の整理になりました。


以下、そのまとめられていたFlying Zebraさんのtweetです。

賠償については個人的にはあってもいいと思うが、「国(あるいは東電)は津波を予見できた」という見解は非科学的で、地裁レベルでこうした科学を軽視した判断が出てしまう現状は、何よりも日本の司法にとって非常に危険だと思う。

自然現象は確率事象だ。規模と発生頻度をグラフに書けば、一番起きやすい規模で発生頻度のピークを取り、その両側では発生頻度は下がる。規模が大きくなればなるほど発生頻度は下がるが、どこまで行ってもゼロにはならない。自然科学を扱う者にとっては常識だが、確率分布というのはそういうものだ。

だから、「〜mの津波が発生する可能性のあることが分かっていた」というのは実は何も言っていないのと同じで、50mだろうが100mだろうが可能性が「ある」こと自体は自明だ。その可能性が具体的にどれだけで、それをどう評価するかというところで初めて人の判断が介入する。

自然災害の発生確率は発生頻度で表すことが多い。何年に1回、というアレだ。対応が必要と評価した場合、次のステップでどの程度急いで対応するかを決めることになる。すぐに(1年以内)対応するのか、5年程度以内の短期にするのか、10〜20年程度の中長期で計画するのかという区分けだ。

例えば評価の結果非常用発電設備が水没するレベルの津波の発生頻度が200年に1度(数字は根拠のない仮定)となって、対応が必要だと判断したとしよう。この対応を、3段階のうちどの緊急度で実施するのが合理的だろうか。

200年に1度の頻度で発生する事象が10年以内に起きる確率は1-(1-1/200)Λ10で計算でき、5%弱だ。5年以内なら2%強、20年以内だと1割程度、100年以内で4割程度になる。関係ないが、200年以内に起きる確率は63%だ。実感より少ないように感じるが、どうだろう。

さて、原子力発電所では常に大小様々な安全性向上のための工事が行われている。計画外の対策工事を割り込ませると、計画されていた工事の一部が後回しにされることになる。緊急性の低い工事を割り込ませれば、結果的に事故の発生確率という意味にぴて安全性が低下することになる。

仮定の話だが、仮に200年に1度という評価であれば、その事象への対応を最大の緊急度(1年以内)で実施するのは合理的ではないだろう。短期で対応すべきか、中長期でよいかは事情によると思う。繰り返すが、合理的でない判断をすれば安全性は下がる。

実際に事が起きた後で、事前にその可能性があることが分かっていた、と言われれば非難したくなる気持ちは分かるが、それは科学的な態度ではない。明日東京を50mの津波が襲う可能性がゼロではないことは今の時点では「分かっている」が、現実にその対策を取っていないこととも整合しない。

後知恵で言えば、防潮堤の嵩上げのようなお金も時間もかかる対策は後回しで仕方ないにしても、せめて高所への非常用電源の追加や電気設備の水密化による被水対策など、比較的簡単にできる対策だけでもしておくべきだった、とは思う。ただ、それを事前にどうやって判断できたか。

明日東京(でもどこでもいいけど)を襲う「かもしれない」巨大津波に対して、被害者をゼロにすることはできなくても、被害を低減するためにできることは色々ある。何なら標高の低いエリアを全て立ち入り禁止にしてしまえばよい。ただし、津波が来るのは明日かもしれないし、500年後かもしれない。

津波に対する原子力発電所脆弱性が明らかになった後で、その教訓を活かして他の原子炉に必要な対策を施すのは当然だ。それを怠れば事業者も規制当局も訴追されて然るべきだろう。しかし、2011年以前においてあれほどの津波が来ることを予見できたはず、というのは無理がある。

司法を司るのも人である以上、ある程度感情に影響されるのは仕方ないのかもしれない。しかし、司法が感情に流され、依って立つべき法とその合理的な解釈を蔑ろにした判断を出してしまえば、何よりも毀損されるのは司法の存在意義そのものではないだろうか。

まことに。
「予見可能」という言葉で、「法は人に不可能を強いてはならない」。
そのあたりが、このニュースから感じた違和感だったのかもしれません。



もう少し続きます。




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