水のあれこれ 60 <水の上で暮らす>

目黒川下流を散歩した話はまだ後日続きますが、「水路をゆく」の「戦後〜高度経済成長期」の記事の中に「水上生活者」について書かれていて、それが少なくとも1960年代の東京でも使われていた言葉であったことを知りました。


Wikipedia水上生活者では、「船上や水上の構造物などで生活の大半を行う者をいう」と説明されています。


<東南アジアで知った漂海民>


「水上の構造物などで生活」というと、私が暮らした東南アジアのある国では水とモスクで紹介した村のように、湖や海の水面の上に高床式の家を建てている地域がけっこうありました。
竹で編んだ床のすき間から、水面が揺れているのが見えます。
夜は、そのすき間からの波音と涼しい風が心地よいものでした。
おそらく台風が比較的少ない地域だったので、それも可能だったのだと思います。



「船上で生活の大半を行う」人たちが実際にいることを知ったのが1990年代初頭で、東南アジアで出会った漂海民の人たちです。
一生を船の上で暮らしています。


小さな船に家財を載せ、港から港へと立寄って「バータートレード(物々交換)」をして生計をたてている人たちです。
住民票どころか国籍もあってないような状況、パスポートなんて持たずに、国境をまたいで島から島へと移動していく人たちが、同じ時代に生きていることに衝撃を受けたのでした。


漂海民のことを知った時には、私は助産師になっていましたから、気になったのは「どこで出産するか」ということと「出生証明書はどうするのか」という2点でした。


「出産は船の上で」と聞いた時には、「産む力がある」とか「生まれる力がある」なんてファンタジーが吹き飛ぶほどの、「死」のリアリティを説明してくれた友人の話し方から感じました。
「出生証明書」についてはあとから何とでもなる国でしたから、想定内の答えでしたが、実際にはほとんど必要がない世界でした。


その漂海民の人たちが立寄る国々の政府からは定着するように言われるそうですが、どの国にも属さないことを選択しているようでした。



<東京都の水上生活者>


オランダでも運河で船で生活する人たちがいることは、80年代頃から世界中の紀行番組や出版物が増えた時代に知りました。
こうした「水上生活者」というのは海外の話だと思っていたのですが、東京にもその歴史があったのですね。


「水路をゆく」では、戦前から戦後の変化が書かれていました。

水質悪化・地盤沈下で人々は水辺から離れた


 舟運の衰退や、工場の廃水・揚水により、水辺に関連した生業が姿を消し、川や海の水質悪化、地盤沈下といったことが顕在化するこの時代、水辺に生活する人々の意識に変化が生じた。経済的な恩恵を受けることがなくなり、しかも悪臭を放つ汚い水辺を厄介者として扱うようになったのである。日常生活から遠ざかる、水辺の移り変わりを見ていきたい。

 戦中は産業が停滞し、一時的には水質が改善するとともに、地盤の沈下量も減少していた。戦後、その状況は一変する。焼け野原からの復興を果たすため、経済が最優先される状況を迎えた。朝鮮戦争の特需景気によって、経済活動が戦前の水準を上回るようになった時期、不振を極めていた回漕業は息を吹き返した。舟運従事者の生活様式にも変化が生じた。1932(昭和7)年の水上生活世帯(東京府の調査「水上生活者の生活現状」)の4割以上が、1958(昭和33)年(東京都の調査)には陸に住居を構えるようになっていた。当時、3種の神器と言われた電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機(後の時代にはテレビ)を持つことが、生活の豊かさとされる価値観が生まれたことや、東京都が保健衛生などの面から陸への移住を推奨したことが影響したものと考えられる。1935(昭和10)年に水上生活世帯数が焼く7800世帯とピークを迎えていたため、1930(昭和5)年には、水上生活者の通う東京水上尋常小学校京橋区月島西仲通に設立された。その後、組織変更や移転を経て、1966(昭和41)年に最後の卒業生7名を送り出し、水上小学校の幕が降ろされた。昭和の舟運を支えた水上生活者の様子からも、水辺の変化を読み取ることができる。

Wikipediaの「水上生活者」の「日本」にも、以下のように書かれています。

これとは別に、19世紀末頃からは、日本各地に寄港する貨物船の大型化が進み、艀を使った舟運や港湾物流が盛んになると、艀を所有し各地を転々とする港湾労働者の中には、自分の艀の一角を住宅化して一家で居住する船上生活者となる者が現れるようになった。東京では埋め立てが進む前の佃、月島、勝ちどき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていった。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿舎形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された。そうした光景や横浜や大阪でもみられた。

日本にも「水上生活者」がいた。
どれくらい、その記録が残されているのでしょうか。
興味が尽きないですね。





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