存在する 3 <人生の先輩とか後輩とか>

駅で電車を待っていると、時々びっくりする光景に出会います。


高校生が立っていると、次々と同じ制服を着た学生が近寄って、「先輩、さようなら」と声をかけて行きます。
仲が良くて挨拶をしているという雰囲気ではなく、片方はチラッと見るだけで返事もせず、片方は90度近くお辞儀をして挨拶をしています。


一瞬、40年ほど前の自分の高校時代にタイムスリップしてしまいました。
当時、東京の垢抜けた女子高生がテレビに映ると、「東京はきっと先輩・後輩の変な関係もなくて自由なのだろうな」と勝手にうらやましがっていました。


ああ、垢抜けてみえた東京の高校生の40年後に、まさかまだあの狭い「先輩・後輩」の関係が残っているなんて。
小学生の頃までは、低学年や高学年の差はあったけれど、横にも縦にも自由に人間関係が広がっていったのに、なぜ日本の社会は中学生になると急に1年の年齢の差を厳然とつけさせたくなるのでしょうか。


そしてそれが卒業後もずっと続きます。
それぞれの語りきれないほどの人生の体験にも関係なく、中学・高校あるいは大学の頃のまま「先輩」と呼び合わなければならない人間関係は、もっと大事な相手の存在そのものを見えなくしてしまうのではないかと私には思えます。


この先輩・後輩という呼び名にずっと違和感を感じて来た私ですが、最近、「人生の大先輩」という言葉を使うようになりました。
お産は怖いと暗に戒めてくださった方々に対してです。
その方たちが1960年代ごろの出産の医療化という激動の時代に助産師として適応し続けて来られたことが、歴史を行きつ戻りつしているうちに見えて来たことで、本当に出会って良かったと思う存在になりました。



<緩やかで多様な人間関係の機会を>


さて、6月30日の朝日新聞DIGITALに「部活動、ゆるくてもいい 改革に望む鈴木大地長官に聞く」という記事があり、こんなことが書かれていました。

何十年も続いて来た部活動には、現代社会に合わない部分が出て来たと感じます。根性、忍耐、我慢は良い面とともに、選手をつぶしてしまう面もある。顧問を担う先生たちも、ハードすぎて限界が見えてしまいます。専門的知識もなく強制的にやらされている教員は気の毒だし、その指導を受ける生とにも申し訳ない。


ガイドラインは休養日、練習時間の問題が中心になると思いますが、休養日設定状況や教員の勤務実態のほか、発育発達の段階に応じた適正や練習量を研究者らに聞くスポーツ医科学調査などの結果を踏まえて作成していきます。


たしかに、子供のころからもっと自分にあった種目や練習のペースが選択できればもっと運動したいと思う人もたくさんいるのではないかと思います。


ところが、中学・高校の部活動はそういう楽しさを許さず、選手を排出することが目的のようになってしまっているのは、私の学生時代もそうでした。
また部活動の中にある特殊な先輩・後輩という人間関係も、運動嫌いあるいは学校嫌いにさせている一因ではないでしょうか。
学校という狭い範囲ではなく、地域の中でそのスポーツを好きな人たちが年齢に関係なく集う場があれば、もっと精神的に自由でかつタフになれるように思います。


スポーツに限らず、親や学校の人間関係以外に、自分の存在を対等に認めてくれる人間関係を持つことができたら、もっともっと違った世界が見えてくることでしょう。



「対等な」というのは、それぞれの存在そのものが未来永劫、二度と同じ存在はないユニークな存在である(生命の一回性)という意味が理解できて初めて気づけるものなのではないか。


たった1歳や2歳の違いで、おたがいを先輩・後輩と呼び合うことで、何か大事なことを見失っているのではないかと思うのです。





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