記憶についてのあれこれ 119 <「在日」という言葉>

なぜ在日韓人資料館を訪ねようと思ったかと言えば、私自身の中の「在日」と言う言葉を整理する機会をずっと待っていたことがある、とも言えそうです。


なぜ「在日」という言葉が生まれたのか。
それはなんどとなく、歴史の本やニュースで見聞きしているのですが、今もなお、私の中ではイメージの部分が大きいのです。
いつか、きちんと向き合う必要があると思っていました。


最初に、日本社会の「在日」という暗闇のような部分を知ったのは中学生の頃でした。
まだ日本国内で外国人に出会うことが限られていた1970年代、私が住んでいた地域では「外人」といえばアメリカ兵でした。


ところが、その「外人」ともニュアンスが違う人たちの存在を、漠然と感じるようになる出来事がありました。
友人同士の会話で、「あの人は顔が韓国人っぽいから、きっとそう(在日)だよ」という話題を耳にしたのです。なにか秘密を知ってしまったような重苦しい雰囲気で。
たとえそうであっても、何がいけないのだろうかということもわからないままでした。


まだ「在日」という言葉も知らなくて、「事情があって日本に住み、日本名で暮らしている韓国人がいる」ぐらいの認識でした。
なぜひっそりと話題にしなければならないのだろうと理解できなかったので、親に尋ねました、
親がなんと答えたのかははっきりとは覚えていないのですが、「あ、この話題はあまり触れてはいけないのだ」と察したのでした。


その後、「在日の問題」をいつどのように認識したのかは記憶にないのですが、おそらく1980年代に入って指紋押捺拒否のニュースなどだったのではないかと思います。
日本に住みながら、犯罪者と同じように指紋を登録しなければいけない人たちがいることに。


そして東南アジアで暮らすようになってから、初めて近代日本の歴史の断片がいろいろと見えてきました。
高校時代にはまだ「現代史」としてまとめられていなかった時代が、だんだんと書物として読めるようになりました。


あの戦争で日本が何をしたかを読むのは辛すぎる読書でしたが、さらに現実でも、職場や当時通っていた教会で「在日」の方達と実際に知り合う機会が増えました。


過去の歴史がもちろん根源的な理由なのですが、出会った人たちは皆、現在の生活に悩み苦しんでいました。


一番、感じたのが、「自分は何者なのか」ということかもしれません。


そして在日一世の親の世代と、二世になった私と同年代の人たちの苦悩はまた違い、親にも理解されない苦しみで精神を病んでしまった同僚もいました。



30代だったわたしは彼女にかける言葉もなく、何をして良いのか、どのように考えたら良いのかわからないまま、ただ、自分が日本人として暮らしていることに申し訳なさを感じていました。


当時であれば、私はこの資料館に行く勇気はなかったと思います。
50代の今だからこそ、感情を抑えて資料を見ることができるだろう。
そう思って出かけたのでした。




資料館で購入した「写真で見る在日コリアンの100年」の最初のあいさつ文にはこう書かれています。

 在日韓人資料館は、2005年11月24日に開設されました。当館は、在日が日本へ渡航した事情、当時の生活実態、権益擁護運動、民俗教育、文化・芸術活動なdの各種資料を収集・整理し、それらを展示・公開することを通じて、在日の歴史を後世に伝えていくことを目的としています。

 ご存知のように当館では、在日を総体的に網羅し、個人の信条や所属団体、あるいは国籍の如何にはとらわれずに、あくまでも客観的な視点から歴史事実を集めること、すなわち史料中心の立場をとるという基本理念を掲げています。世界各地で普遍的に使われている「韓人」という名称を取り入れたのも、そうした当館設立の趣旨に基づいたものです。

歴史認識というのは、半世紀ぐらいたったころで、ようやく気持ちの整理がついて、客観的、普遍的なものが見えてくるのかもしれません。





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