記憶についてのあれこれ 120 <用水路>

子どもの頃から見たり聞いたりして体のどこかにある経験が、半世紀生きた頃になってさまざまな伏線となっていることを感じることがあります。
まるで小さな血管から辿って、大きな血管へと行きつくように、最初は小さな体験だったものが、興味や思考にけっこう影響を与えているのかもしれません。


ブログを書きながら自分のこれまでを行きつ戻りつ考えているうちに、用水路もそのひとつだったかもしれないと思うようになりました。
時代が時代なら、「用水路フェチ」といった感じでしょうか。
それほどのめり込んでいる訳ではないので、プチフェチかな。


今でもそうですが、水が流れている用水路を見るとなんだかうれしくなってしまいます。
そばで、その水音を聴いたり、水面をながめているだけで幸せな気分。
その用水路で野菜を洗ったり洗濯をしたりと生活の場になっている映像を見ると、たとえ1本の水路が上水道と下水道の機能を併せ持っていても許せてしまうぐらい、どこか懐かしく感じます。


幼児の頃に住んでいた都内の「側溝」と言えば汚れた水が流れていて、悪臭が漂う場所でした。
まあ幼児の記憶なのでどこまで正確なのかはわかりませんが。


その後、高校生まで過ごした山間部では、側溝にはいつもきれいな水が流れていました。
山の雪解け水が浅間神社の境内に湧き水になり、そこから街の中へといつもきれいな水が滔々と流れていました。
田んぼの近くにはコンクリート張りでしたが用水路があり、夏はジャブジャブとその中を歩きました。
ただ、それだけ用水路がありどこでも豊かに水が流れていたため、子犬を水に流してしまったわけですが。


それだけ美しい水の流れる用水路が身近にあった生活でしたが、別格だったのが関西にあった祖父の田んぼの周囲の用水路でした。
コンクリートではなく、草に覆われていました。
小学生にしたら背丈の半分ぐらいに伸びた夏草の中を恐る恐るかき分けて歩くと、西瓜やかんぴょうの原料になる夕顔がなっている場所がありました。
飽きもせずに、一日中用水路のそばで探検をしていました。


用水路という文字を見ただけで、あの祖父のところで遊んだ日々の記憶が一緒に思い出されます。


今年になって、その祖父の大事な田んぼと用水路が、私が想像していた以上の場所であったことを知りました。
ブラタモリ」の「倉敷」の回で、江戸時代はあの祖父の田んぼのあたりは海であり、新田開拓のための干拓地であったことを説明していました。
そして、塩に強い綿が栽培され、それが倉敷紡績クラボウ)がある理由だったことです。



今さらながらに、そうだったのかと驚きでした。
そして子どもの頃から心ときめかしていた用水路ひとつにも、長く深い歴史があることに、半世紀たってつながったのでした。


それで、見沼代親水公園が用水路跡であったというひと言に惹かれ、そこから関東の新田開拓について知ることになったのでした。
今度は見沼の用水路をブラブラしてみようかなと、心が躍っています。




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