食べるということ 23 <そこで採れたもので作る>

最近、「コウケンテツが行く アジア旅ごはん」を久しぶりに観ました。
これはNHK BSの番組なので、BSの契約をしていない私は、たまに地上波で放送している時に楽しみに観ています。


先月のマレーシアの少数民族の村での調理や食事風景も、私が住んでいた東南アジアのある地域にそっくりで懐かしさを感じました。
いろいろと似ているけれど、それでいて全く違う調理方法もあって、「こうきたか」と驚いたり、味を想像したり、わずか15分の番組なのですが、まるで東南アジアを旅したような充実感があります。


まずは、食材集めに家の周囲へ。
雑草が生い茂っているようにしか見えない場所で、ミデインとパクを見つけだします。
ミデインは薬味になるような葉っぱで、パクはゼンマイに似たものでした。
この場面から、「あ〜懐かしい」という気持ちになりました。
私が住んでいた村でも、家の周囲の草をちょっと採ってきてはその日のスープに入れられていました。


石臼でニンニクやタマネギ、トウガラシなどをつぶし、油で炒めて味を出したあと、メデインとパクを入れて炒めていました。


東南アジアで見かけるニンニクやタマネギというのは、日本とは大きさが全く異なります。
玉ねぎだと鶏卵の2分の1ぐらいの大きさ、にんにくだとひとかたまりが親指の頭ぐらいです。
1980年代に最初に東南アジアで見た時には、「やはり途上国の農業は遅れているからこういう小さなものしか収穫できないのだ」と、今考えるととても不遜なことを考えていました。


ところが生活して食べ慣れて行くと、その地域の料理にあった味つけだからこその大きさなのだと思うようになりました。
日本のような大きな玉ねぎやにんにくは、やはりこの料理の味にはならないだろうと思う大味とでもいうのでしょうか。
決して品種改良が遅れているとかそういう問題ではなく、その味に必要だからその大きさのままなのかもしれません。
今では、タイ料理やベトナム料理を食べる時に見つける玉ねぎの破片がとても貴重で、味わって食べています。


番組では、村から離れた湿田地に出かけて、そこで陸稲の収穫を手伝い、そしてお昼ご飯を作って食べるシーンがありました。
陸稲を栽培する場所が湿田地ということを、この番組で初めて知りました。


水にしばらく漬けたもち米を竹筒に詰めて、そのあたりに生えている草で蓋をし、直火で加熱しています。
ドリアンを塩漬けにし発酵させたタンポヤをバナナの葉に包んで、火のそばに置いて蒸し焼きにし、ウリをそのまま火に入れて焼いた焼瓜がおかずのようでした。


私が住んでいた地域ではドリアンを塩漬けにして発酵させる方法は聞いたことがなかったので、やはり東南アジアの料理は食材や調理方法が似ているようで微妙に違いがあって、奥が深いと感じました。
コウケンテツ氏が美味しそうに食べる姿に、タンポヤってどんな味なのだろうとゴクリと生唾を飲み込みながらも味が想像できないもどかしさ!


でも、それ以外の竹筒で蒸したもち米やバナナの葉に包む調理法は、少数民族の村で体験済みでしたから、なんだか一緒に食事をしているような気分になりました。
味付けも調理も本当に単純なのですが、あの美味しさはとても表現できないものです。


そしてこちらの記事の「土地の境界線」に書いたように、私が住んでいた地域もイスラム教徒や少数民族の集落は家に垣根もなく、森の中にぽつんぽつんと家が建っているのですが、家を出て歩くだけで食材や調理に使う植物が集まるというマジックワールドでした。


まあ、「そこで採れた物で作る」ことにあまり感動しすぎると、「そこで採れた物を食べるべき」という思想や価値観になりやすいので要注意ですね。


世界は本当に広くて、さまざまな食べ方があることに単純に感動し、関心が広がっていく。
そんな番組なので、また楽しみにしています。




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