福生に行くために、久しぶりに中央線に乗りました。
20年ぐらい前は頻繁に乗っていた電車なので懐かしさを感じるとともに、その後、1999年から2012年までの間に高架化された中央線に初めて乗るのでわくわくしました。
三鷹のあたりから高架された箇所に入るのですが、多少、大きなビルが増えたぐらいで沿線の風景が広々と感じるのは同じでした。
でも、高架されたことで少し高い場所から見渡すことで、初めて「ああ、やはり武蔵野台地なのだ」と実感するほど、遠くに台地のヘリが見えるようになったことに感動しました。
多摩川だろうと思うあたりで風景が途切れ、そして対岸の丘陵地が見えるのです。
1990年代まで地面を走っていた頃には、見ることのない風景でした。
ただ、その当時も今も、武蔵野にはあちこちに雑木林や畑が残っているのを見ることができます。
私が生まれて幼稚園まで過ごした地域も武蔵野台地ですが、あちこちに大きな木があり、畑が広がっていました。
武蔵野台地は、大昔からの豊かな土地であるというイメージがありました。
Wikipediaの武蔵野台地の「東部の舌状台地群と、その上に広がる都心市街」に、「武蔵の台地は湧水によって水利が得やすく、また沖積低地のような洪水も避けることができるため、古来から人口が多かったと思われ、多摩川の崖線には古墳時代の古墳や遺跡が多数残されている」とあります。
その反面、「用水路と農業」では、以下のように書かれています。
一方、高位面である武蔵野面の開発は水の便が悪かったため江戸時代まで入り会い地として利用される程度の状態だった。このような状況を変えたのが、川越藩主の松平信綱による玉川上水や野火止用水の開削である。玉川上水は江戸市中の水道のために設けられたものであるが、野火止用水をはじめ多くの分水路は田用水としても作られ武蔵野面の水利の状況を一変させたという点からも重要である。
典型的な関東地方の畑作地帯であり、昭和も後半の高度成長期までは、米が2割から3割、それも陸稲米で冷えるとぼろぼろになる麦飯やかて飯を常食とし、水田地帯の人たちから「麦は軽いから、風呂に入ると浮いてしまう」と軽蔑されていた土地柄であったが、今日では武蔵野台地は大消費地を至近に持っている地の利を生かして傷みやすいホウレンソウや小松菜などの葉物野菜の供給地として、またキウイフルーツや花卉などの園芸作物の生産地となっている。
「昭和も後半の高度成長期」といえば、米余りが問題になっていた時期ではないですか。
だとすると、私の幼少時の「豊かな武蔵野台地」のイメージはどこから来たのだろうと不思議です。
「東京湧水 せせらぎ散歩」の最後の方にも、「湧き水を制することは」にこんなことが書かれていました。
われわれは石油がなくても生きていけるが、水がなければ生きていけない。この当たり前の事実からわかるように、人類は太古の昔より湧水や河川、湖沼などの水辺に住みついてきた。世界四大文明も大河のもとに発祥している。水を取り入れる技術、灌漑技術のない時代には、人々は水の得やすいところに居住するしかなかったのである。わが国でも、湧水や川のそばに古代住居群があるのはそうした理由によるし、武蔵野台地が長く未墾の地であったのは、玉川上水が開削されるまで水が得られなかったからに他ならない。
玉川上水が台地の尾根伝いに作られそこからさらにいくつかの用水路が武蔵野台地を潤してからも、私が幼児だったわずか半世紀ほど前まではハケの下の水が豊かな地域との生活の差が歴然としてあったのですね。
今、何百万人という人がこのハケの上の台地で生活しているわけですが、農業用水だけでなく、その生活のための水を滞りなく供給できるようになったのが、このわずか半世紀なのかと改めて驚きました。
<おまけ>
武蔵野台地というと関東ローム層という言葉が思い浮かぶのですが、小学校高学年か中学生ぐらいで習ったその言葉を改めて確認して、また驚きました。
関東ロームの研究は、関東ローム団研グループ(関東ローム研究グループとも)が、1953年以来研究を行い、初めて地質学的な解明を行い日本の第四紀研究の先駆けとなった。その研究結果は1965年の『関東ローム』にまとめられている。
私がこの言葉を習ったのは、本格的な研究が行われてからそれほど年月がたっていたわけではなかったのですね。
もっと古くから研究が積み重ねられていた用語のイメージがありました。