行間を読む 70 <三毛別羆事件とヒューマンエラー>

三毛別羆事件が起きてから半世紀過ぎた1960年代に木村盛武氏が初めて調査した当時は、まだリスクマネージメントという言葉や概念もなかった時代ではないかと思います。


リンク先のインタビュー記事を読むと、いまだに社会の感覚はあまり変化がないのかもしれないと思う点がいくつかあります。


<現場の判断にだけ任せている>


たとえば、「林務官というのは、熊の生息地域で活動する機会が多いですね。技術官に対して、ヒグマ対策のような教育は行われているのですか?」という質問に対してこう答えています。

それが私も驚いたことに、少なくとも当時はほとんどなかったんです。「ヒグマに出くわすと危ないから気をつけろ」ぐらいは言われますね。どう気をつければいいのかまでは教えてくれなかった。実際に、私は林務官として、何度かヒグマに遭遇して、肝の冷える思いをしました。ですから本書を書くにあたっては、林務官はもちろんですが、真実を追究して、ヒグマというものの習性を明らかにして、二度とこのような事件が起こらないように、多くの人に知って欲しいという思いでした。


医療の急速な進歩に伴って、私たち看護職も日々使用する医療機器や薬品が増え、処置や看護ケアも複雑化しているのですが、相変わらず標準化された看護ケアや全体を把握するシステムがありません。


どこで知識や情報を得たら良いのか戸惑いながら研修や書籍を探しても、「自分たちの考えは新しい」「自分たちがしている方法が最善」というものがほとんどで、知りたいのはそれではないという感じです。


他の施設のヒヤリ・ハットから同じ過ちを繰り返さないように全国の各施設の試行錯誤が体系化されたものが欲しいのですけれどね。



<「ヒグマの習性を明らかにする」難しさ>


三毛別羆事件を描いた「慟哭の谷」には、「冬なら冬眠してるはず」「火を恐れるはず」といったヒグマの習性についての人間側の「思い込み」や、想像を越えるような事件現場では認知の歪みが起こりやすいことが描かれています。

事件の起きた時期は真冬で、本来であればヒグマは冬眠しているはずです。ですが、このヒグマの場合、どうやら苫前に現れる以前に、別の地域で猟師に追われ、冬眠に入る機を逸して、いわゆる「穴持たず」となってしまいました。

まず、これは世間的に大きな誤解があるところなのですが、「ヒグマは冬眠しているから警戒しなくてよい」というのは間違いです。むしろ、冬のほうが危険といえるかもしれません。ヒグマが冬眠する巣穴は、山奥ではなく、むしろ林道など人里に近いところに多い。しかも冬眠といっても、熟睡しているわけではなくて、言ってみれば半覚醒状態で、近くで物音がすれば、当然起きますし、なかには巣穴から半分身体を出して冬眠しているのもいます。


いやあ、怖いですね。私も、熊の観察に基づいた生活史を知らずに、イメージだけでした。


さらに、ヒグマについて日常的に見聞きしている人たちでさえ、事件の記憶が曖昧であることも書かれています。

興味深かったのは、肝心の熊の大きさや色でさえ、十人十色で、「赤かった」という人もいれば「真っ黒だった」という人もいるという具合で、それだけ異常な状況だったことをまざまざと知らされると同時に、正確な事実を確定させるのには、慎重を要しました


異常な状況での感覚について、以前救命時の特殊な時間の感覚を書きましたが、重大インシデントが発生した時には「本当にその記憶は正確かどうか」についても、時間をかけて慎重に判断しなければならないことが多々あります。


<一番怖いのは人間かもしれない>


冒頭でリンクしたインタビュー記事の中で、三毛別羆事件で子どもをヒグマに食い殺されたチセさんの話があります。通夜の晩にヒグマが遺体を取り返しに戻って来たために、家にいた人たちはパニックに陥り、チセさんの夫はチセさんを踏み台にして天井の梁へ逃げてしまったそうです。


「人間なんてひどいもんだ」と答えたチセさんの状況とはまた違いますが、リスクマネージメントで「人間がやっぱり怖い」と感じた部分がありました。


三毛別羆事件はあれだけの死者を出した事件でありながら、木村さんが取材されるまでは正確な被害者数さえわからなかったそうですね」という質問へ、以下のように答えています。

そうですね。例えば事件の起きた日時や場所、被害者、人数、年齢性別、現場の状況など、基本的な事実でさえ、私が父や伯父から聞いた話、当時の新聞の報道、あるいは事件について触れた刊行物はそれぞれ食い違っていました。単なる伝聞情報だけで書かれたものや、過剰な脚色が入ったものもあり、客観的な事実が掴めなかったんです。


おそらく、「真実を追究して、ヒグマの習性を明らかにして、二度とこのような事件が起きないように」という気持ちは同じなのかもしれませんが、「真実を追究して、二度とこのような事件が起きないように」と焦ってしまうと、「ヒグマの習性を明らかにする」ことや事実を確認することが、すっぽり抜け落ちてしまうのではないか。



事件が起きると動揺し「二度と同じ事がないように」と社会全体が興奮し、肝心の再発防止策の短期・中期・長期視点が見えなくなってしまうことを現代も繰り返しているような気がします。


今世紀中には、日常生活にもリスクマネージメントが広がるでしょうか。
そうすれば重大インシデントに対して、懲罰的な感情で社会が反応することが少なくなるかもしれません。



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