水のあれこれ 74 <人喰い川>

「人喰い川」と聞いて思い浮かべる川は、地域によってもさまざまかもしれません。
「あそこは、子どもが遊んでいて亡くなった」とか「釣り人が足を取られやすい」とか。


川面は静かなのに、一旦、引き込まれると命を落とすこともあるのが水の怖さでもあります。
あるいは、雪国の水量の多い怒濤のような流れは、見ているだけでも足がすくみそうです。


ところが、まさかあの玉川上水がそう呼ばれていたとは、と最近驚いたのでした。


30年ほど前に玉川上水に関心が出て、昨年ようやく暗渠部も含めてほぼ全域を歩くことができ、また、30年ぶりに玉川上水上流を見る機会ができました。


その玉川上水ハケ上へと水路を変えていく清岩院と中福生公園あたりは、玉川上水にそった遊歩道がありません。
深いコンクリートの三面張りでさらに高い柵が設置されていて、そのすぐ横は車道になっています。
30年前に歩いた時には、羽村の取水口からはずっと遊歩道があったような記憶があったのですが、玉川上水に沿って歩くことができない箇所があったことは意外でした。


これも、自治体によって公共事業のデザインが違うのかなと思ったのですが、帰宅して本を読み返してもしかしたらこれが理由だったのかと思ったのが、今日のタイトルでした。


<「武蔵野・江戸を潤した多摩川」より>


購入したまま「積ん読」になっていたのですが、福生から帰宅したあとに読んだのがこの本です。

「武蔵野・江戸を潤した多摩川  多摩川・上水徒歩思考」
安富六郎氏、農山漁村文化協会、2015年

その「玉川上水にまつわる技術的疑問」(p.94)に、こんな回想が書かれています。

 筆者が小学生の頃、1940年代には、この上水はゆっくりとした、静かに渦巻く満水の流れであり、落ちれば助からない「人喰い川」と呼ばれ、遊びに行ってはならない場所であった。幼い頃には、ここに霊鬼が潜んでいるように見えたものだ。

私が初めて玉川上水を知ったのが1980年代半ばで、三鷹から井の頭公園あたりを少し歩いた記憶がありますが、雑木林の中に、土そのものが土手になっている中に「清流」がながれていましたから、都内にこんな場所があることに驚いたのでした。
しばらくして、それよりももう少し上流の小平あたりの上水沿いを歩き、同じ様に雑木林の中にあり遊歩道が続いている、小さな川の印象が、そのまま「玉川上水」のイメージになりました。


その後、図書館でいろいろと本を読むうちに、東京都水道局の「玉川上水」に書かれているような歴史を知り、私が見ている水は1986年(昭和61)の清流復活事業によるものであったことを知りました。
江戸を潤していたはずの玉川上水の水量の少なさに最初は驚いたのですが、一旦、廃止された上水の跡を整備したものが、現在の玉川上水であることはその時に理解できました。


その後、羽村取水口を訪ねた時には、玉川上水の上流部分には滔々と大量の水量があったように感じたのですが、東京都水道局の「淀橋浄水場の廃止と現在の玉川上水」を読むと、あの福生あたりで見る水量は「原水」の一部でしかないことがわかります。

 昭和40(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました。淀橋浄水場は廃止となり、その機能は東村山浄水場へと移されました。
 そして、玉川上水の導水路としての役割も野火止用水との分岐点である小平監視所で終了しました。
 羽村取水口から取り入れられた多摩川の原水は下流500メートルの第三水門を通過すると、取水所より遠隔操作で村山貯水池(自然流下式)と小作浄水場(ポンプ圧送)に送水されます。残りはそのまま玉川上水路を流れ、途中6分水(福生、熊川、拝島、立川、砂川、小平)に放流し、12キロメートル先の小平監視所に送ります。沈砂地に導かれた原水は管路で東村山浄水場へ送られます。


清岩院と中福生公園あたりの玉川上水が、あのように歩く人を寄せ付けない作りになっているのは、「人喰い川」と呼ばれるほどの水量が流れていた時代があったからなのかもしれません。




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