運動のあれこれ 13 <感情が先に立つ>

あちこちを散歩するようになって、野生動物に餌付けをする人がけっこういることを知りました。
たいがいは中高年以上の年代の印象です。


最近の川は本当に水がきれいになったのか、鴨やサギなど、なん種類もの鳥や、魚がたくさんいます。
川辺のベンチに座って、その姿を見ているだけであれこれと考えることができて充実した時間です。


ところが、見ているだけでは満足できない人がいるようです。
「野生の動物に餌付けをしないでください」と立て看板があるにもかかわらず、川へ向かってパンなどを投げ入れる人を、どの川でも目にしました。


最近では、「あ、あの人は何かを投げようとしているな」という挙動不審を見分ける能力がついたので、鳥を見ているフリをしながら、じーっとその人を見つめることにしています。
やはり何か「見られてはいけない」「やってはいけないと書かれていることをやっている」後ろめたさがあるのでしょう。
私が見ている間は、パンを投げたりせずに様子を伺っている感じです。
数分の沈黙の闘いが終わり、私が向きを変えた途端、鳥たちの羽ばたく音が聞こえて、投げ込まれた餌を食べています。
そして、その人は鳥たちが食べているところを眺めるでもなく、次の場所へと去っていくのです。


なぜ、野生の動物に餌をあげたくなるのだろう。
寂しさを紛らわしている人なのでしょうか。


<「かわいそう」という感情の奥にあるもの>


そんなことを考えていたら、ちょうど「クマともりとひと」を読みました。
この団体については多少話を聞いたことがある程度でしたが、「この本は、どうしてこれほど人を感動させるのでしょうか」「100%、真実を書いたからだと思います」「愛は、言葉ではなく、行動である」という記述にちょっとびっくり。
「野生の熊」が対象ではなく「ヒト」が対象の活動なのかと思うような、情緒的な文体です。


まあでも気を取り直して、活動の始まりを読んでみました。
1992年にツキノワグマが絶滅の危機に瀕しているというニュースが発端だったようで、「えさ場を失い、おなかをすかせて仕方がなく森から人里へ出て来ては、次々と有害獣として射殺されてしまう」ことに、なんとかしなければと思ったことが書かれていました。


「社会に知識が浸透するための時間差のようなもの」に書いたのですが、1990年代初頭は「地球環境」という言葉が急激に広がった時期でした。
私が教わったこともないような新たな概念を、小学生が学んでいることにびっくりしたものです。
それとともに、当時は里山もトレンドだった記憶があります。


「人為的に森林が荒らされて、野生動物の餌が足りなくなって人間の住む地域に出て来ざる終えなくなった」
当時としては、その考え方も可能性の一つとして、耳にしました。


さて、お正月にNHKの紀行物の特集番組に、野生生物への餌付けについての話がありました。
この熊森協会が始まったのと同じ、兵庫県のイノシシの話です。
イノシシが人間の居住区へ降りてくるようになったのはなぜか。
山での食糧不足ではなく、山には木の実がたくさんあるにもかかわらず、ハイキングなどで人間が人間の食べ物をイノシシに与えることが原因であるということでした。
2000年代半ばの番組でした。


クマとイノシシの習性の差、あるいは地域によっても野生動物が人間の住む場所に入ってくる理由はさまざまあるのでしょうが、まずは野生動物に餌付けをしてはいけないということは、私も1990年代から2000年代にかけてのどこかで耳にして、私自身の中での常識になりました。


ところが、なかなかそれを受け入れられない人たちがいるのはなぜでしょうか。


「かわいそう」「自分が餌をあげなければ」といった感情のもう少し奥には、「そうすることで自分の存在意義を確認している」あたりがあるのかもしれないと、ふと思ってしまいました。
環境保護とか野生動物保護の運動に、そういう自己啓発的な言葉が含まれていたら要注意というところでしょうか。




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