水のあれこれ 77 <水を分ける その2>

前回の井戸の記事の最後の方で、「井戸によってあらたな水争いが起きたり」とさらっと書いたのですが、「水争い」というのは実際にどんな状況なのかほとんど私には知識がないことに、また冷や汗が出そうになっています。


二ヶ領用水を散歩したもうひとつの目的は、昔の水争いを解決するための施設を見ることでした。
地図を拡大しながら、武蔵小杉から二ヶ領用水をさかのぼるようにみていくと、途中で青い半円状の場所があることに気づきました。
これが久地円筒分水です。


1941(昭和16)年に建設された久地円筒分水について、「概要と現状」に以下のように書かれています。

上河原・宿河原の堰で多摩川から取水した二ヶ領用水は、久地(現在の久地駅付近)で一旦合流し、ここで(西から順に)根方掘、川崎堀、六ヶ村堀、久地・二子堀の4方向へ分岐するが、その各用水路の灌漑面積に応じた一定の比率(7.415:38.471:2.702:1.675)で水を正確に分け流すための施設である。


ほぼまっすぐ続く二ヶ領用水の周囲の風景はあまり変化しないので、本当にその場所はあるのだろうかとすこしいぶかりながら歩き続けました。
溝ノ口と高津の間を抜ける頃から、左手に小高い丘が見え始め、どこからか結構な水量を感じさせる音が聞こえ始め、目の前に久地円筒分水が現れたのでした。


水音は、Wikipediaの「周辺」に書かれている、「平瀬川・津田山(七面山)を貫通して作られた新しい流路と二ヶ領用水が円筒分水の手前で合流」しているところから聞こえてくるようでした。
山の中のトンネルから、勢い良く平瀬川の水が流れ、二ヶ領用水と合流していました。
その水を、Wikipediaの写真にあるような、コンクリート製の円筒の中を通しながら水を分けていくようになっているようです。


いやあ、本当に情けないくらい数字が苦手なので、何がどうなって上記の様な正確な水の分け方ができるのか理解できず、ただ円筒分水の前で呆然と水を眺めただけでした。



<水争いとはどんな状況か>


子どもの頃には断水が時々あった記憶があるのですが、あの震災でさえ水に困ることがなかったほど、清潔で豊かな水を安定した料金で供給されている恩恵の中で、よほどのことがないと「水に困る」ことを想像するのは難しいものですね。


水を得るのに苦労したソマリアでの経験も、すでにのど元過ぎて熱さ忘れるになっています。


「水争い」で検索すると、各地の農政局のサイトで、水争いの歴史をよむことができました。
たとえば、近畿農政局の「水争いと『農』の秩序」にはこんなことが書かれています。

水をめぐる争いーーーいわば集落全員の生死をかけた争いです。待っても待っても雨は降らず、太陽がジリジリと照りつけます。土にヒビが入って稲も枯れ始めます。どこかの集落が耐え切れず、夜中に上流の堰を壊しに行きました。村中が殺気立ちます。人々は手にカマやクワを持って集まり、戦国時代さながらに川を挟んでの乱闘が始まります。

そう昔のことではありません。犬上川(滋賀県)では昭和7年、「農民400余名竹ヤリかざしてにらみあう」と新聞でも大きなニュースになりました。10数名の犠牲者を出し、300人あまりの警官隊が3日かけてようやく騒ぎが収まりました。道徳や理屈などで解決できる問題ではなかったのです。


水が足りないだけでなく、水が多すぎる状況もまた水争いの原因になることでしょう。



田畑の面積と水量を計算し正確に分け合う方法を模索することで、「道徳や理屈では解決できない問題」に折り合いがつけられた。


細かいことはよく理解できないのですが、水の流れを観察し、計算し、そして水を分けるための強固な施設を建設する技術に、なんだか圧倒されたのでした。




*2019年10月14日改題しました。
うっかり水を分けるという全く同じ題の記事があったことに長いこと気づきませんでした。こちらを「その2」にしました。


「水のあれこれ」まとめはこちら