雪道で立ち往生したのはあの大震災があった2011年だったと記憶していたのですが、日記代わりの手帳を見直すと、2010年3月下旬でした。
本当に、記憶というのは頼りないものですね。
今から8年前ですから、あの雪の日の出来ごとは母が70代後半になった頃でした。
その1年後に、おそらく認知症の父を見守り続けていた心労と地震への不安など一気にきたのでしょう。
心臓手術から半身麻痺になり、そして生活の場が施設になるという転機がきました。
その後は、心身の自立も経済的な自立もいろいろと失われる局面が続きました。
その辛さはいかばかりかと、一応、看護職ですから母の状況を客観的に受け止める努力をしてはいるのですが、やはり身内のことになると老いることを余り考えていなかった様子に内心、苛立ってしまします。
あるいは子どもの頃からの母との葛藤への記憶を思い出しては母との関係を直視することも増えて、母のことになるとちょっと辛辣な記事が多くなってしまいます。
この半年で、母はさらに基本的欲求に対する援助が他の人の手を必要とすることが増えました。
介護スタッフの方が直接的な身体援助をしてくださっているので、私自身はどちらかというとそういう援助が滞りなく受けられるように調整する後方支援という立場です。
それでも、だんだんと日常的なことができなくなる母に対して、昔、私が乳幼児だった頃に母が私を世話していた立場と逆転することが増えました。
そして、つい「(どうしてそんなこともできないの?)」「(どうして理解できないの?)」という気持ちになることが増えました。
言葉や態度にしてしまえば、母の自尊心を多いに傷つけることはわかりますから、ぐっと飲み込んでいます。
ぐっと我慢しているのは、「それをもし私が言われたら嫌だから」という理由が最も大きいのかもしれませんが、先日の大雪の立ち往生の場面から、少しそれとは違う気持ちが私の中にあるように思えて来ました。
それは、70代後半という年齢で、あの大雪の中の適切な判断と運転を成し遂げた母への尊敬とでもいうのでしょうか。
そうやって母なりにいろいろな判断で苦難を乗り越えて来たのだろうと思います。
時々思い出すあの場面に、母の感情的な面や不合理性にはまだまだ翻弄されつつも、「母だから、身内だから」ではなく、一人の人ととして精一杯生きて来たその人の人生を最後まで責任をもちたい、そんな気持ちです。
「重荷のケア」という言葉の意味が、少し理解できたのかもしれません。
ただ、「重荷としてのケア」でさえ、「やりがい」という麻薬になりうることも忘れてはいけないのですけれど。
「ケアとは何か」まとめはこちら。