仕事とは何か 5 <中学生の職場体験>

私がよく利用している区民プールに、いつ頃からか職場体験の中学生を見かけるようになりました。
受け付けの仕事や、更衣室の巡視や清掃などをスタッフの方が説明しています。


職場体験が行われる日でもスタッフ数が増えているようではなさそうでしたから、「通常の業務に加えて、ほとんど仕事の内容をわからない中学生たちに説明するのは大変だろうな」と、最初の頃はどちらかというとスタッフ側の気持ちになっていました。
毎年、見ているうちに、「私の頃にもこういう場があったら」と最近ではうらやましさを感じています。


中学生どころか高校生になっても自分が何をしたいのかわからなかったのは、どんな仕事の可能性があるのか、そのためにどのような準備が必要なのかという情報が周囲から得られなかったからだと、1970年代を思い返しています。


「女は大学にいく必要がない」と「女性はせめてあるいはせいぜい短大まで」という大人の価値観のせめぎ合いの中で、看護学校や美容学校などの専門学校を選択することが折中案という感じでした。
そして、「一人の人間として自由になるための経済力を持つ」ことが私の中では当時一番求めていたことでした。
「何をしたいのか」がありませんでした。


なぜ、「何をしたいのか」がなかったのだろうと、時々、自分の人生の根幹ともいえる部分に想いをめぐらしているうちに、少し見えて来たことがあります。
世の中にどんな仕事があるのか知らなかったからだろう、と。


もちろん、中学生ぐらいになれば世の中にいろいろな職業があることがわかります。
ところが、その職業を身近に感じる機会がないと、理解することは難しいものです。
私の場合は、軍国少年として育ち階級制度のある公務員だった父と、高卒であることを義母に馬鹿にされたことからの確執にずっと囚われている母の影響が大きかったのだと思います。
仕事の内容ではなく、「社会的にどちらが上か下か」にしか見えていなかった中学生でした。


そして偏差値の時代になり、地方では成績トップなら「高専」、そして成績上位何人目までが「県立○○高校(進学校)」何人目からが「△△高校(商業高校)」「☆☆高校(工業高校)」といったランク付けが自然とできていました。


「何がしたいのか」ではなく、「何番目にいるのか」しか見えなかったのでした。
そしてさらに、女子だと上位にいても大学進学は「無駄なこと」という周囲の意識を乗り越えなければならず、「大学で何を学びたいか」まで私には到底思いつきませんでした。


1970年代にもしこの職業体験があったら、あるいはキッザニアのような施設があったら、「この仕事をしてみたい」「そのためにはどんな勉強をしたらよいのか」というごくあたりまえの順序で考えることができたのかもしれませんね。


緊張しながらプールの監視員さんの後ろを歩いている中学生を見て、私よりよっぽど自由な発想で「仕事とは何か」を考えることができているのだろうなと、うらやましく思っています。




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