思い返すと父は本当に物に執着のない人で、食べるとか着るといった基本的欲求も質素で、趣味に対しても本を購入するぐらいでした。
認知症になって、父の口からソフトクリームを食べたいとか饅頭が食べたいという言葉を聞くと、食事に対して文句をいったこともなくなんでも美味しそうに食べる父にも、欲求というものがあったのだと驚きました。
それでも同室の患者さんが排泄介助を受けている状況でも美味しそうに食べ、入院や入所では寝衣にも部屋の環境にもひと言も愚痴をこぼさず適応している姿に、少年時代からの軍隊の経験がそうさせるのだろうか、それとも坐禅の修行で達磨大師のようになったのだろうかと、父のことをあまりに知らなさすぎたことをまた後悔するのでした。
<買物とは何か>
さて、こちらの記事の「買物とは、世の中とつながる大切な営みです」という大仰な定義に、まず思い出したのがこの買物とは無縁の人生だった父のことでした。
「ところで買物の定義はあるのか」と、今まで考えたこともなかったを考える機会になったことにはAERAにも感謝ですね。
まずはWikipediaを開いてみたら、すっきり整理された説明がありました。
買(い)物(かいもの、英:shoppingショッピング)とは、品物を買うこと。
ビジネス用語、業界用語などとしては「購買(こうばい)」ともいう。特に出かけて買物をすることとは「買出し」(かいだし)とも。
つまり「自然を感じててくてく歩いて」買物にいくのは、買物のひとつの「買出し」ですね。
買物にはまだまだ種類があるようです。
買い物はさまざまな方法で行われる。書い手が店舗を訪れて行われる方法、業者が買い手のもとを訪れて行われる方法、電話経由(かつての株式売買など)、最近ではインターネット経由で行われる方法などがある。
「歴史」の中では、その「世の中」も変化していることが書かれています。
都市が形成され、そこに大勢の住民が生活するようになると、社会が分業化すると共に全てを自分で生産する自給自足によって家計を賄うことが困難になり、外部の商人からの商品購入によって補われることになる。そこで常設の市場や商業地域が形成され、人々は消費者として必要とする商品を探索し、また複数店舗に存在する場合には商品の品質や価格の良し悪しを推量して購入するようになった。
ここにおいて、従来存在していた特定の個人と特定の消費者の人間関係に基づいた1対1の関係であったものが崩れていき、消費者が不特定多数の商人との関係を持って計画的な買物を行うようになり、商人も不特定多数の消費者に向けて販売を行うようになった。
今日ではセルフサービスのような、買物に際して売り込みなどの働き掛けに急かされることも無く、心行くまで店頭で商品を吟味し、商品を運ぶ形態が主流であるが、更には通信販売・カタログ販売にはじまり電子商取引のような客が商店に行かなくても買物できる形態も盛んで、買い物客は様々な選択肢から自分の好む性質を備えた商品を手に入れられるようになっている一方、商店・販社側では客に対して魅力的な商品を取り揃えて客の趣味を引くよう尽力している。
あ〜、なんてすっきりした現実の世の中を表現した文章でしょうか。
「買物とは、世の中とつながる営み」と自分の好む「世の中」をイメージして考える人がいてもかまわないのですが、それを正義として社会の問題を解決しようとするとつじつまが合わなくなるのかもしれません。
たかが買物、されど買物。
買物の定義ひとつでも突き詰めて考えることは大事かもしれませんね。
「正しさより正確性を」のまとめはこちら。
「スーパーの自動販売機はお年寄りに残酷すぎる」から考えた記事のまとめはこちら。