運動のあれこれ 17 <スポーツと運動>

前回の体育とスポーツの違いで紹介した野口智博氏のブログに、スポーツにはもともと「遊び」「日常からの逃避」という目的があると書かれていたことにちょっと虚を衝かれた感じです。


体育と運動で書いたように、跳び箱が苦手だったことだけで「私は体育ができない」と思っていたのに、いつの間にか「運動好き」になっていたのは、まさに「スポーツ」だったからかもしれません。


私が出会った体育の先生というのは男性も女性もいつも怒鳴っている先生ばかりで、運動ができる生徒には人一倍目をかける態度が子ども心にもわかりました。
今はこういう前近代的な感覚の先生が減っているといいのですけれど。
そして、部活動の中での先輩後輩の変な厳しさとか、大会に出場することが目的になったような雰囲気も苦手でした。


1970年代ごろはまだ、自分が好きな運動を自分の好きなペースで続ける環境がなかったので仕方がなかったのですが、それを思うと、わずか40年ほどでもこれだけさまざまな世代の人が好きなように体を動かす時代になったことはなんだかすごいと思えてきました。



<スポーツにも運動(movement)があった>


さて、今日は体育の「運動」ではなくてmovementの方の運動という謎かけのようなタイトルです。


Wikipediaスポーツの「概説」や「歴史」を読んで、スポーツにもmovementがあったということを知りました。


しかし19世紀に入ると、権威主義に対抗した筋肉的キリスト教(en:Muscular Christianity)運動や、運動競技による人格形成論が台頭、貴族階級から解放され労働階級による大衆化が進んだ。近代になると統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする競技を第一に意味するようになった。これが現在も行われているスポーツであり、日本で最も広く流通している意味である。


筋肉的キリスト教運動なんてあったのですね。

19世紀中期にイギリスで始まるキリスト教の運動である。愛国的責任感、男らしさ、運動を通じた心身の美、チームワーク、規律、自己犠牲、さらに「軟弱さ、非英国的なもの、極端な知性主義の追放」によって特徴づけられる。

アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトも、筋肉的キリスト教を実践する家庭で育っている。ルーズベルト、キングスリー、ヒューズらは、個々の生活においても、政治的見解においても、キリスト教的な思想を追求しながら、肉体の力と健康を推奨した。筋肉的キリスト教は、霊的成長と肉体的発達をともに求めるいくつかの組織を通じて今日に続いている


「YMCAに運動競技が加わることで、バスケットボールやバレーボールの発明に繋がった」は「へ〜っ」というトリビアですが、スポーツにも善意と正義を貫く伝道の影響があったとは、今まで考えたこともありませんでした。


日本に住んでいるとこういうキリスト教の一部の激しさは実感しにくいのですが、乳児に何を飲ませるかについてさえも、WHO/UNICEFを動かし1979年にWHOの決議を出させ、ミルクや哺乳瓶についての監視行動を生み出すまでに至ったことを考えると、スポーツにもそういう動きがあったことも想像できます。


ドーピングについて「選手の心身を守る」ことよりも、違反を見つけ出すための監視に比重が移って正義の闘いの様相を呈しているのもこうした運動が関係しているのでしょうか。


そういえば、保健体育の授業では歴史を学んだ記憶がないのですが、やはり何についても歴史をたどり年表から考えることは大事なのかもしれませんね。





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