境界線のあれこれ  85 <鎮守の森の自然と人工>

鎮守の森という言葉は子どもの頃から馴染みがありますが、よくよく考えると私にはほとんどわかっていない言葉です。


私にとって鎮守の森の最初の記憶はもしかすると伊勢神宮かもしれません。
4歳の頃にフェリーに乗って参拝したのですが、ガーナ・チョコレートの鮮やかな赤い箱と対照的な黒い夜の海、そしておそらく漆黒の森ともいえるような境内の印象が記憶に残っているのではないかと。まあ、後付けの記憶かもしれませんが。


その次の鎮守の森の記憶は、山間部へ引っ越した時に見た大きな浅間神社でした。
鬱蒼とした大きな木に囲まれた境内には、冷たい湧き水があって、夏は子どもの遊び場になっていました。


裏山の「自然な森」が日常の遊び場だったので、神社の森というのはよく整備された、むしろ人工的な森だと感じていました。


そして、その神社の人工的な森の代表が明治神宮 なのかもしれません。


最近、用水路のある場所を散歩するようになって、Wikipedia鎮守の森にあるような「水田に囲まれた鎮守の森」が目に入るようになりました。


こういう鎮守の森は、その場所自体を神体として崇める、より「自然な鎮守の森」と言えるのでしょうか。


<鎮守の森と人の手>


Wikipediaの「鎮守の森」の「植生」を読むと、ますます自然と人工の境界がわからなくなりました。


鎮守の森が守られたとしても、その周辺の開発によって「鎮守の森だけが孤立して残れば、元々は広く連続していた植生が小さくなるから、それによって個体群を維持できない種も出てくる」といったあたりまでは理解できるのですが、「人間の手による撹乱」の以下の部分を読むと、「自然を守る」ということを本当に理解するのは難しいものだと思いました。

境内には野生でない植物の植栽が行われることが良くある。また、森林内で木が倒れた場合に、それによって生じた隙間(生態学用語で言うギャップ)を、スギやヒノキなどを植え込むことで埋められることもよくある。近世の段階で、境内における林野資源の利用が進んでいたという報告もある。近年では、森林の下刈りや落ち葉掻きを行う場所もあるが、このような手入れは薪炭林や人工林ならいざ知らず、自然の森林でこれを行えば荒廃を進行させるものである。


何かを植えたり放流することで「自然が守られる」という単純な話ではないよ、ということでしょうか。


「鎮守の森があると涼しい」だけではダメですね。
自然というのは難しい言葉ですね。




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