難民についてのあれこれ 5 <私にも移民の子孫になっていた可能性があった>

先日のパンパシ水泳で女子の4×100mフリーリレーの決勝が終わった時に、フィリピンチームに言葉をかけているカナダの選手がいました。
カナダのナショナルチームの中では小柄でアジア系の顔と名前ですが、たしか以前のワールドカップでも来日して決勝まで進んでいた選手だと記憶しています。
そして、もしかしたらフィリピンをルーツに持つ選手かなと思っていましたが、今大会のそのシーンを見て確信しました。


海外からの出場選手のコールで会場が少しざわめいたのが、マーシャル諸島から出場した選手で、日本の苗字だったからでした。
日本名を持つ選手に、戦前から戦後しばらくのマーシャル諸島と日本の歴史が思い浮かぶ人はこの会場にどれくらいいるのだろうと、ちょっと気になりました。


私自身、東南アジアに暮らして、戦前からの日本の移民政策について知る機会がありました。出稼ぎから移民になり、その2世、3世といった人たちから実際にお話を伺う機会もありました。
そういうこともあって、アイルランドを始め、移民については気になっています。


ただ、今まではあくまでも私とは違った世界、私が経験していない世界といった視線でした。
関心は深いつもりでしたが、やはりどこか他人事だったのだと思います。


干拓と移民>


倉敷の水田が江戸時代からの新田開拓のための干拓地であったことをブラタモリで知ったのですが、それでも祖父のことは「江戸時代ぐらいから何代か続いている農家」ぐらいの適当な認識でした。


7月の50年に一度の水害の後から、俄然、祖父の田畑についての関心が高まりました。
検索すると、いくつか倉敷の干拓についての資料を読むことができました。
本格的な干拓は明治時代からのようです。
母に面会に行くたびに、倉敷の曽祖父母やそれ以前のルーツについて聞き出しているのですが、案外、先祖や故郷に対する母の記憶が曖昧なので、いつ頃、先祖の誰があの干拓地に住み始めたのかを確認するのも容易ではありません。
ただ、どうやら曽祖父が干拓地に入植したようです。


母が子どもの頃、昭和10〜20年代には、祖父の田んぼでは米もよくできて経済的にも安定していたそうで、船を借り切って瀬戸内海を家族で小旅行したこともあったようです。


終戦直後に、祖父に南米への移民の話があったことを、先日初めて知りました。
干拓地で水田を維持するために、祖父は一時期専門的に研修を受けていたことがあったらしく、その技術を南米で活かしてみないかという話でした。
当時、40前後だった祖父にしてみれば、「外国で一旗あげる」話に夢がふくらんだことでしょう。
その話が立ち消えになったのは、母が猛反対したからだったとのことでした。


初めて聞くこの話に、移民という言葉が現実感を持って感じられたのでした。


そんなこともあって、パンパシ水泳でコールされる選手のルーツがいつもに増して気になりました。


私も、もしかしたら移民の子孫になっていたかもしれないと。
まあ、そうだったら母は父と出会わなかったので、私もいなかったのですけれどね。




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