散歩をする 80 <笹塚>

京王線笹塚駅は都営新宿線への乗り換えなどでたまに降りる程度でしたが、30年ほど前からその駅がとても気になっていました。
ホームに立つと、南側の商業施設に紀伊国屋書店QUEEN' S ISETANが見えます。最近、どこの駅周辺も再開発で見慣れたお店が消えて行く中で、その2つをみるとまだあってよかったと安堵するのです。


なぜそのお店が気になるかというと、30年ほど前に目黒考二氏の本を図書館で見つけたのですが、そのただ淡々と「今日は何をした」「どこへ行った」「誰と会った」という内容が続く日記の中に、その2つのお店がよく登場していたのでした。
のちに「笹塚日記」と名前が変わったようですが、ただただ日常を記録するスタイルのその文章を読みたくて、しばらく「本の雑誌」も購読していました。


ということで、たまに笹塚駅のホームに立つと目黒考二氏のことがまず浮かび、そのお店がまだあるかどうかの「安否確認」に気を取られていたので、ある大事なことが目に入っていなかったのでした。


それは、笹塚駅の南側に玉川上水の暗渠部分が通っていたことです。


<大きく蛇行する暗渠部分>


笹塚駅の西側に、以前は川が流れていたところを歩道にしたのだろうなと思うような、曲線を描いた歩道があります。
それは以前から、目に入っていました。
ある日、もう少し南側に、駅から南の方向へまっすぐ伸びる川と遊歩道があることに気づきました。
なんとなく、その二つの川がつながっていて蛇行した暗渠部分から、開渠になっていることが見えてきました。
何という川なのだろうとちょっと気になりましたが、そのままにしているうちに、笹塚駅から南西の方向に両岸がこんもりした木に覆われた小さな川があることが、走行中の車窓から見えて閃きました。


なんと、ずっと関心を持っていたはずの玉川上水ではないかと。
見ているはずなのに見ていないことがたくさんありますね。


隣の代田橋の駅のホームの下には玉川上水が流れていることも知っていたし、笹塚のあたりから新宿までは京王線や甲州街道の下にあることが、最近ようやくつながってきたのですが、まさか代田橋から笹塚あたりでこんなに蛇行した箇所があるとは思ってもいませんでした。


地図で確認すると、代田橋から幡ヶ谷のあたりまで蛇行した遊歩道があります。
これが玉川上水跡のようです。


代田橋から初台まで遊歩道を歩く>


代田橋駅を降りてしばらくすると、玉川上水が再び暗渠になるところに公園があります。
そこからは暗渠の上に小さな公園が点在した遊歩道が続くので、道なりに歩くだけで玉川上水の跡をたどることができました。
南の方向へと暗渠が続くのですが、環七を地下道でくぐるとそこからは再び、京王線の線路へ向けて北東へと流れ、そしてあの笹塚駅のホームから見えた遊歩道と歩道につながります。


笹塚駅から再び玉川上水は大きく南へと流れを変えて、中野通りにぶつかるあたりで再び北東へと大きく蛇行していました。
中野通りを渡るとすぐに東京消防庁消防学校の敷地があるのですが、それに沿って新宿まで玉川上水の遊歩道が続きます。


その消防学校の交差点に立って、ここを玉川上水が通っていた理由が少しわかりました。
その交差点から驚くほどの下り坂が、代々木上原方面へと続いていました。
タモリさんが好きそうな「台地のヘリ」に沿って、高台を選んで玉川上水が作られていたのだろうと。


<牛ヶ窪>


笹塚の「歴史」の中に、その大きく蛇行した箇所がわかる地形図があります。
ただ、玉川上水を作るのに高台を選んだとしても、笹塚のあたりはまっすぐに掘ることができない何か障害があったのだろうか。
それが気になっていたのですが、後日、幡ヶ谷から笹塚駅まで甲州街道沿いを歩いてみて、これが理由かもしれないという説明を見つけました。


甲州街道と中野通りの交わる笹塚交差点の手前に、牛窪地蔵尊という小さな祠がありました。
260年ほど前にはこの辺りが「牛を使って最も厳しい牛裂きという両足から股を引き裂く」極悪人の酷刑場だったそうです。
牛がいた窪地というのんびりしたイメージとは全く違うものでしたが、現在は「道供養碑」として以下のような説明が書かれていました。

 この道供養碑は、文化3年(1806)11月に造立されたことが、銘文からわかります。これにより、道祖神地蔵尊などの交通安全、悪魔退散の呪術的信仰とはちがい、これは橋供養と同じように、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を祈ろうとするらしい供養碑です。
 中野通りの先は駒場道(鎌倉道)の一部で、この道供養碑は元はそれに面してたてられいて、駒場道の供養碑であったことがわかります。
 なお、中野通りに甲州街道が交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ヶ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞い行事を行う場所、といういい伝えもあるようです。


確かに交差点あたりを中心にして、かなり窪んだ場所が広がっています。
玉川上水は、この窪地を避けるために大きく南側へ蛇行せざるを得なかったということでしょうか。
そして、甲州街道の北側に玉川新水路を作る頃には、ギリギリの尾根伝いに水路を建設できるだけの土木技術が進歩したからなのかもしれません。
事実はどうなのだろう、またいろいろな資料に出会うのが楽しみになってきました。


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