水のあれこれ 87 <水を盗む>

水の神様の記事で引用した神田川笹塚支流の「歴史」に書かれていた箇所を読んでいたら、現代の日本で「水を盗む」という状況はあるのかなと考え込んでしまいました。


幡ヶ谷周辺では縄文時代弥生時代の遺跡も散見されることから、歴史的に和泉川は幡ヶ谷付近で生活する人々の生命線的存在であった。とりわけ稲作農業を営む者にとっては極めて重要な水脈であったはずだが、河川としての規模は小さくまた源頭水源を有さないことから、その水供給はきわめて不安定であったものと推察される。

しかしながら1654年に玉川上水が通水されても村内への分水の設置はなかなか許可されなかった。幡ヶ谷村への分水の許可は、1722年以降の新田開発政策によって多くの分水が許可されるようになってから50年以上遅れた1755年になってから、しかもその規模はかなり小さなもので、取水口のサイズはわずが4寸(名刺2枚程度)と玉川上水の分水としては最小であった。それでも地元にとっては重要な水源であったようで、1898年に玉川上水新水路建設に伴い分水が廃止となった際には、盗水を行ったうえでそれを湧き水と偽装することにより水源を確保していた。

この偽装工作は、まず偽装のために周囲に小さな弁天池を掘り、その弁天池のほとりにもともと地元にあった弁財天を移設、そのあと弁天池の底を玉川上水と連結することで上水の水を湧き水のように偽装して弁天池へと導水するというかなり凝ったものであった。この偽装工作は、幡ヶ谷の市街化で農業用水としての存在理由が無くなり自然消滅するまで続いたという。なお、偽装に使われた弁財天は湧き水消滅後は本来の場所に戻されたそうである。この取水口(弁天池)から現在の環状七号線の付近で和泉川へ流下するまでの導水路は、玉川上水とは逆に西に向かってだがれていたことから、地元では逆さ川とも呼ばれていたという。


自然にできた逆川ではなく、不自然な逆川ということでしょうか。


この逆川がどの辺りなのか、説明文と地図を前にどの辺りか探して見たのですがよくわかりませんでした。
検索すると、「東京の水」というブログに「神田川笹塚支流(和泉川)」(2009年10月16日)という記事があり、写真付きでわかりやすく説明がありました。
確かにあのあたりなら甲州街道と環七の交差点あたりの地形を利用して玉川上水よりさらに高い所に玉川上水新水路を導いた場所ですから、明らかに水の流れは逆さだったのかもしれませんね。


和泉のあたりは神田川河岸段丘に沿った地域で、小高い場所は洪水からは逃れられても水を得るのは大変な場所だったのかもしれません。



水争いも嫌だけれど、自分が住んでいる地域全体で盗水せざるをえない状況も罪を負っているようで避けたいものですね。
しかも、神様にまで嘘をつかせて。
農業用水に限らず、今は、全ての地域に合法的に生活に必要な水を確保するしくみがあることに、なんだかほっとしました。



「水のあれこれ」まとめはこちら