10年ひとむかし  37 <防災と公園>

まだ、公園を利用するという感覚がなかった20年ほど前でしたが、公園のそばを通ると防災と関係していることを意識していました。
1995年の阪神・淡路大震災が私の意識を変えたのだろうと思います。
それまでも、災害だけでなく内戦状態の国々の様子などを「知っていた」はずなのですが、やはり自分の身に起こる可能性までは実感としてなかったのかもしれません。


あの頃から、街の中の「避難先は◯◯公園」といった表示が気になり始め、「この公園の地下には災害時のための貯水槽があります」と書かれているのを見て、ふだんはほとんど利用者がいないような小さな公園でも災害のために整備されていることが目に入るようになりました。


先週の東京サイトで、代々木公園の災害時の対応について紹介していました。
あの広大な公園は21万人の避難者を想定していて、緑地には仮設住宅を作り、公園内に設置されているベンチはかまどとして利用できること、公園内のトイレは常設型防災トイレでそのまま災害時にも利用できることなど、よく備えられていることが印象的でした。


先日、神田川笹塚支流を歩いた時にも、「避難先は代々木公園 2.5km」といった表示を見かけました。
その時には、2km以上離れた代々木公園しか避難先はないのかなと思ってしまったのですが、こういうことだったのだと理解しました。


搾乳場や水車のある農村から日本陸軍の練兵場になり、そして戦後はアメリカ軍のワシントンハイツと変化してきた代々木周辺が、私が幼児だった半世紀前にはオリンピックのための施設になり、防災公園となった。
なんだか数奇な運命の土地ですね。


関東大震災日比谷公園


「東京の公園の歴史を歩く」を読むと、公園と防災がつながったのは、1923年(大正12年)の関東大震災がきっかけだったようです。


「西欧をモデルに近代都市への改造と公園計画」(p.22〜)の中では、その一つの1903年明治36年)に開園した日比谷公園について以下のように書かれています。

 日比谷公園は、霞ヶ関の官庁街と有楽町の繁華街の間にあって、現在東京の顔的な公園になっているが、これは当初から期待された性格であった。ただしその立地そのものは、明治20年頃に内務省が日比谷練兵場に計画していた官庁集中計画の中で、最終的に建築に不適な地盤のところを公園とするという位置づけをされ、これが市区改正に引き継がれて日比谷公園が計画された経緯がある。


今は皇居を目の前にした一等地のように見えるのですが、以前、ブラタモリで紹介していたように、あのあたりは江戸時代に建設残土で埋め立てた日比谷入江という地形が公園として利用される運命になったというあたりでしょうか。


日比谷公園が開園してから20年後に関東大震災が起こりました。震災直後に、公園や広場に被災した人たちが避難してきた様子が以下のように書かれています。

地震直後、公園・広場に避難160万人余り


関東大震災は10万人以上の命を奪ったが、そのうち9割が火災によるものであった。過密な大都市を襲う災害の恐ろしさを知らしめた。しかしこの惨禍の中で、公園や緑地が火災の延焼を防ぐ役割を持つこと、特にそれが連続することで避難路になることなどの認識が高まることとなった。もともと江戸の町は度重なる火災に対応した火除地(延焼を防ぐ広場)などの工夫があり、都市火災に対処する歴史があった。近代に入り、たとえば札幌大通りなどの防火のために広場状の緑地が整備される例もあった。しかし、震災後の東京を歩いた作家の田山花袋が、「現に私が覚えてからも、まだあちこちにそのための火除地が残されていたのに・・・。それなのに、いつ誰がそれを(中略)通れる路もないような市街地にしてしまったのか」と評したように、近代の東京には過去の知恵が活かされていなかったようである。

また公園には避難地としても大いに役立ち、地震には東京市の公園に皇居前広場や東京駅前広場などと合わせて160万人余りの人々が避難した。ただしこのうち本所(現墨田区)の陸軍被服廠跡(更地の公園予定地であった)に逃げた市民は、強風も災いして旋風と化した猛烈な火焔の犠牲となり、震災全体の犠牲者のおよそ1/3にも及ぶ多数の命が奪われた。しかし一方で順次多くの公園は仮設住宅バラック)の用地を提供し、新宿御苑神宮外苑などを含めて公設のものだけで4万人程度を収容し被災市民の生活を支えた。

<震災復興と公園>


この関東大震災の教訓から、都内には墨田公園、江東公園(のちの錦糸公園)、日本橋公園(のちの浜町公園)の3つの大公園と52の小公園が作られたそうです。
52の小公園については以下のように書かれています。

震災小公園の登場は世界的に見ても画期的なものであった。コミュニティの中心施設として小学校と小公園をセットにし、これを土地区画整理を行いながら52ヶ所に及んで同時に実現したことは、公園計画を超えた復興計画全体の総力の結晶と言える。

地図を眺めていると、ところどころに学校の敷地と公園が一緒に描かれている場所があります。
これにはそういう意味があったのですね。



代々木公園も現在はおしゃれな場所に囲まれていますから、だれかが震災のことを忘れて「あの土地を売ってもっと経済的に活用しよう」と言い出していたらと考えるとドキリとしました。
のど元すぎれば熱さ忘れる、ですからね。
防災は人災の日という言葉は、いろいろなことに応用できそうです。


でも、失敗とかリスクとかの経験が忘れ去られずに引き継がれたからこその代々木公園の防災設備だったのだと、また少し歴史がつながったのでした。





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