事実とは何か  55 <沼なのか、川なのか、海なのか>

谷津干潟は1960年代から70年代の工業地帯が開発される時代に、そこだけなぜか取り残された。
その理解で概ね合っているようですが、Wikipedia概要には「習志野市谷津地先の干潟は利根川放水路計画により旧大蔵省の所有であったために埋め立てを免れ」とあります。


地図を見ても利根川印旛沼とはだいぶ離れた場所にあるのですが、利根川放水路の概要を読むと戦前に壮大な放水路計画があったようです。

1936年から1938年にかけて度重なる利根川の洪水と、それに伴う甚大な被害を受け、内務省は1939年に利根川と鬼怒川の合流点での計画高水量を従来の5,570㎥/sから10.000㎥/sに引き上げ、増加分のうち2,300㎥/sを東京湾に放水する放水路開削を決定した。


利根川東遷事業河川の付け替えが長い年月をかけて行われながら「利根川の流路を太平洋へと付け替えた」のに、今度は再び一部を東京湾へと戻す必要があった。
知れば知るほど、関東平野の地理と歴史の奥深さに圧倒されます。


あの谷津干潟のあたりも予定地になっていたのに、戦争によって計画が中断したことで干潟を残すことができたようです。

1939年から用地買収が開始され、1940年に船橋、続いて鎌ヶ谷で着工、掘削工事が行われたものの、第二次世界大戦の戦況の悪化に伴い工事は中断。1945年には正式に中止された。

利根川放水路の計画ルートは1946年、陸軍の消滅に伴い、布川狭窄部の上流から印旛沼西端を経由して、花見川を通るルートに変更された


俄然、印旛沼に関心が出てきました。



<海から沼へ、そして川へ>


印旛沼の歴史には以下のように書かれています。

印旛沼は、およそ2万年前、海面が著しく低下していた際に形成された下総台地の侵食谷が起源で、縄文海進時には地盤沈下により溺れ谷となり香取湾(古鬼怒湾)と呼ばれた海の一部であった。奈良時代頃には香取湾の海退とともに、鬼怒川から洪水によって運搬された土砂が沼へ向かって流れ込むなどして(三角州の形成が認められる)、次第に出口がせき止められ沼が形成された。


2万年前からの地形のダイナミックな変化と、奈良時代頃までは海があったことにめまいのような感覚におそわれます。
香取海に「1926年時点の関東平野の地図に縄文海進領域を重ねた地図」がありますが、これをみると古東京湾とともに大きな湾が現在の千葉県や茨城県あたりにあったことがわかります。


ここ2〜3年、関東の川を散歩するようになって時々見かけるこの昔の関東平野の地図ですが、実際に歩くことで、その地図が地形だけでなく歴史の意味も伴って、少しずつ立体的に理解できるようになってきました。
と言っても、まだまだ表層的な理解なのですけれど。


さて、印旛沼の「地理」にこう書かれています。

利根川下流域右岸、下総台地の中央に位置する。元々は"W "字形の大きい沼であったが、戦後の干拓によって2つの細い水路でつながった北部調整池(北印旛沼)と西部調整池(西印旛沼)に水域が分かれ、面積は半分以下に減少している。それでも湖沼としては千葉県内最大の面積を誇っている。ちなみに北印旛沼・西印旛沼の両者は、印旛捷水路または中央排水路を介してつながっている。


昔、海だったあたりが沼になり、そして放水路によって川の機能を持つようになった。
ぜひ見てみたいと思いました。



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