客観的のあれこれ 4 <「三人の友人との議論」>

唐突なタイトルですが、これは旧約聖書のヨブ記のテーマです。


20代後半から旧約聖書と新約聖書を読み始めたのですが、たとえ話など教訓的なわかりやすい話が多い新約聖書に比べても、難解なのが旧約聖書でした。
歴史背景やその地域の地理、気候、文化などがわからなければ、旧約聖書に書かれている内容が理解しにくいことが理由のひとつかもしれません。
それと、人間社会の風土とでもいうのでしょうが、物事の捉え方、考え方、対処の違いなどやはり世界はひろいという認識がないと、本当に理解するということからは遠ざかり、自己流の解釈で満足することになってしまいます。
自己流の解釈にならないようにと注解書も購入して読み進めていったのですが、注解書もまたその膨大な背景の入り口にすぎず、旧約聖書行間を読むことは一生かけても成し得ないことでしょう。



その中でもヨブ記は、私にとって難解なもののひとつでした。
何度読んでも、そこに意図されているものが理解できなかったのです。


ところがバズるについて考えていたら、ヨブ記のことが思い出されたのでした。



ヨブ記とは>


キリスト教に関わることがなかったかたでも、ヨブ記をどこかで「物語」として読んだことがあるかもしれません。
旧約聖書の中では比較的、馴染みのあるものではないかと思います。


神を畏(おそ)れ、清く正しく生きてきたヨブに、神は重い皮膚病という試練を与えます。
Wikipediaの「導入部」には、「その社会情勢下では、皮膚病は社会的に死を宣告されたことを意味し、ヨブは炭の中に座っていた。ヨブの妻まで神を呪って死ぬほうがましだと主張するようになる」とあります。


ところが、ヨブは絶対に神を呪うことはしませんでした。

「お前まで愚かなことを言うのか、私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」
このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった。

ヨブ記が書かれた時期はまだ明らかになってはいないようですが、少なくとも紀元前数年あたりですから、この時代に「重い皮膚病」がどのような意味をなすか、神を呪うことがどう言う意味を持つか、現代からは想像がつきにくいかもしれません。


「新共同訳旧約聖書略解」(日本基督教団、2001年)では当時の様子とヨブをこう説明しています。

《無垢な》倫理的な意味で「完全な」「非の打ちどころのない」「潔白な」など。《正しい人》「真っ直ぐな人」。この二つの用語は「神に従う人」「善人」「神と共に/神の御前に歩む」と同義語。ヨブは善人であり、知恵ある者だったと言うこと。当時は善人であるなら幸福になり、罪人なら不幸な目に遭うという因果応報の法則によってモラルの秩序が保たれていると考えられていた。この幸福も不幸も、死後の生命についても曖昧な認識しかなかった古代イスラエルにおいてはこの世の人生で実現すると考えられていた。従って、その幸福は命、長寿、家族の繁栄にあるとされ、宗教的にはこれらは神からの祝福と言われた。しかし、現実には善人が罪人の運命に悩まされ、罪人が栄え、語っているのはどうしてか。ここにヨブ記の問題意識がある。

最後のあたりは色々な意味で、現在もまだ変わらないですけれどね。


<「三人の友人との議論」>


その不幸に陥った善人のヨブの元へ三人の友人がきて、ヨブを励まそうと訪ねてきます。

その後、ヨブの三人の友人、サマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツオファルが彼を慰めるべく、それぞれの国から旅して来た。社会的に死を迎えているヨブを訪問する行為は賞賛に値する行為である。彼らは7日7晩、ヨブとともに座っていたが、激しい苦痛を見ると話しかけることもできなかった。

当時は、遠方から旅をしてくること自体、命がけだったことでしょう。
病に苦しむだけでなく「社会的死」に陥っている友人を慰めに訪ねることの意味も、現代とは全く違うことでしょう。


最初は、話しかけることもできなかった友人たちが、それぞれ「正しいこと」を言ってヨブを諭し始めます。

やがて友人たちはヨブに、ヨブがこんな悪い目にあうのは実は何か悪いことをした報いではないか、洗いざらい罪を認めたらどうかと議論し、身に覚えのないヨブは反発する。


そう、この「三人の友人との議論」の箇所で、私はいつもつまずいていました。
友人三人とヨブ、つまり4人の発言の内容を読んでも、「どれも正しいように見えた」のです。


90年代にもしWikipediaがあれば、私のつまずいた理由に気づいたかもしれません。
Wikipediaに「議論の進展に伴い、抽象論から具体的に的を得たものになっていく」とあるように、最後には「正解にたどり着ける」と言う期待が私にもあったのでした。
ところが、何度読んでもどれも正解のように見えるので、私には正しさがわからないのかと焦ったのでした。
「議論」には正解があるはず、と。



Wikipediaには、続けて次のように書かれていました。

宗教的指導者と苦境にあるものの代表としてのヨブとの議論であり、ヨブは前者の説教への疑問を呈しており、本来は自分の主張は宗教観に含まれるべき(聞いてもらうことが慰め)と主張している。


なるほど。
3人はそれぞれの正しさを伝えようとし、ヨブは違うものを求めていたわけですね。
「正しいこと善いことを求めることが善いこと」「正しいこと善いことはひとつ」と思っていた私には、理解できるはずがなかったのでした。


「バズる」状況を見ていると、それぞれが自分の狭い経験の中から正しいことを主張しあっているように見えることがヨブ記に似ているのかもしれないと思ったのでした。
紀元前からずっと、「バズる」に似たようなことを繰り返して来たのかもしれませんね。


そして「三人の友人の議論」とは、この世は不条理に満ちている、それを認めよという内容ではないかと。




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