水のあれこれ 90 <高梁川と小田川>

地図で東西用水路のあたりを見るとすぐ上の場所が「つの字」になっていて、高梁川が大きく蛇行しています。
その「つ」に曲がった場所に西側から小田川がまっすぐに流れ込んでいて、その合流部から上流へと高梁川は大きく「くの字」を描いて蛇行しています。


50年に一度の災害はこの二つの川の合流部付近で起きました。
当時のニュースでは、高梁川小田川が合流する箇所での増水が原因ではないかというニュースが流れていました。平成30年7月豪雨岡山県の被害状況では以下のように書かれています。

国の調査委員会の見解によると、小田川では合流先の高梁川の増水に伴い水がせき止められるバックウオター現象が発生し、越水により堤防の内側が削られ決壊したと見られる。

水害の直後に地図を開いた時には、大きな「つの字」の蛇行は、高梁川の豊富な水量によって生み出された自然な地形なのだろうと思っていました。


先日、東西用水路を訪ねて、そこからさらに検索して見つかった資料で、この地域の江戸時代からの土木事業について知りました。


<「高梁川の歴史」より>


地図を見ると、東西用水路の配水池がある対岸にも少し大きなため池のような場所があります。
高梁川に流れ込む川を、洪水調整のために堰き止めているのかなと気になりましたが、訪ねる時間がありませんでした。


帰宅してから、国土交通省のサイトの「水管理・国土保全」に「高梁川の歴史」があるのを見つけました。
その中の「第一期改修」に、実はあの大きなつの字は自然な蛇行ではなく、元々は緩やかに東と西の二つに分かれて流れていた川を西側の川へと付け替え、さらに西側の川の一部を締め切って現在の貯水池になったことが図で示されていて、以下のように説明されていました。

 明治時代に入っても高瀬川では一貫した改修計画は立てられず、水害が続いていました。明治26年10月に既往最大規模の洪水が発生しました。高梁川の水嵩は平水より10mあまり上昇し、本川の他支川の至る所で堤防が決壊しました。明治25、26年の大洪水を契機として明治43年から大正14年まで行われた内務省による第一期改修によって、それまで倉敷市で東西両派川に別れていた東派川の廃川地の造成、水島の工業用地造成などが行われ現在の高梁川の姿となっています。


それまでは5年に一度は水害が起こっていた理由が、こう書かれています。

 高梁川上流の阿哲郡、成羽川上流の広島県比婆郡神石郡などの中国山地脊梁に近い花崗岩地帯は、古くから砂鉄収集の鉄山産業が行われていました。山を掘り崩し、流水による「鉄穴流し」という比重選法によって砂鉄を収集し、精錬所(タタラ)で鉄材となります。鉄穴流しの過程で、下流に風化土を混する濁水と莫大な土砂を流下させることとなり、下流域の河床上昇の一因となり、天上川を形成するようになりました。

中世から明治時代中期までの鉄穴流しと、江戸時代以降の干潟の干拓や埋め立てによってゼロメートル地帯が拡大しました。現在の倉敷市をはじめとする下流の平野部の多くはこのように干拓によって形成された低平地であり、洪水や高潮が堤防を越え居住地域へ流れ込むと被害が拡大しやすい特性を持っています。


1892年、1893年の大洪水を契機に、高梁川を大きなつの字の流れへ変えた。
今年の水害の後だけに、一世紀前の壮大な土木工事に賭けた当時の人たちの思いが身に染みます。



さらに小田川の歴史を読むと、小田川もまた、江戸時代に土木事業で大きく流れを変えた可能性があるらしいことが書かれていました。

江戸時代以前においては、源流からの水流は、現在の伊原市の市街地から西に流れ、備後灘に注いでいたとされる。それを備後福山の初代藩主である水野勝成が備後福山城下を洪水から守るために、瀬替えを行わせ、現在の流路ができあがったという説があるが、相当な土木工事であったはずなのに、そのことを記した文献が残っていないという難がある。他方、河川争奪が生じたという説や、かつては伊原市の市街地から東西に分かれていたところ、何かの理由で西への流れだけが遮られたという説もあり、現時点では定説はない。


地図では二つの川が合流しているだけにしか見えない場所に、簡単には知ることができないほど歴史が積み重なっているのですね。


伯備線に乗って、その小田川高梁川の合流部に差しかかる手前で、中洲にはあの豪雨でなぎ倒されたと思われる木がたくさん見えました。
そして、対岸を見るとあの時の濁流のせいでしょうか、数mぐらいの高さまで植物の色が変わってしまっている場所がありました。
物見遊山のような気持ちで写真を撮ることはためらわれたので、目に焼き付けることにしました。




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