思い込みと妄想 41 <ほうれん草とポパイ>

私ぐらいの世代だと、菠薐草というとポパイです。
大男ブルートに負けそうになると、ポパイがほうれん草の缶詰をぐいっと握りつぶすように開けて、もぐもぐと食べると力こぶができるあたりが、毎回、子どもを興奮させるのでした。


Wikipediaを読むと、へ〜っという説明が書かれていました。

ポパイのほうれん草パワーは、ほうれん草等の野菜を食べない小学生に野菜が必要な事を説く際、多くの母親たちが引き合いに出したエピソードでもある。

なおこの作品が制作された当時、ほうれん草の缶詰は製造されていなかった。「ヘラクレスとほうれん草(Greek Mirthology)」(1954)では、当初ポパイの先祖はにんにくの匂いを嗅いで力を出していたが、ブルートに除草剤のような液体をかけられ匂いがなくなった玉ネギの代わりにはほうれん草を食べたところ、玉ネギの匂いを嗅いだ時以上の力を発揮し、それ以降はほうれん草を食べるようになったという説もある。


私がポパイをテレビで見たのは1965年までに放送された頃だったでしょうか。もう少し後にも、再放送があったような記憶があるのですが。
まだ日本では「タンパク質が足りないよ」から少し状況が良くなったぐらいの時代だったので、当時、アメリカのホームドラマにみる「豊かな食卓」は夢のようでしたから、おそらく「ほうれん草等の野菜を食べない小学生に野菜が必要な事を説く際、多くの母親たちが引き合いに出した」はアメリカの話ではないかと思います。
もちろん、日本でも好き嫌いの子どもはいたけれど、とにかく目の前にあるものを食べるしかないくらいの経済状態だったと思い返しています。


ほうれん草は英語で「spinach」であることを小学生頃に覚えたのはポパイのおかげでしたが、ほうれん草の缶詰ってどんなものなのだろうとずっと気になっていました。
1980年代初頭にアメリカへ旅行し、夢のように大きなアメリカのスーパーマーケットを興奮して回ったときに、まず探したのはほうれん草の缶詰。ところが見つけられずに帰国したのでした。


<ほうれん草の陰謀論


さて、今日のタイトルに「思い込みと妄想」をつけたのは、「ポパイがほうれん草を食べると強くなる」ことを指したのではなく、「ホウレンソウ、ポパイ」で検索したら「【ベジタリアンの陰謀!?】ポパイがホウレンソウで強くなる理由」という記事が一番最初に出てきたので、ふ〜んと思いながら読んだのでした。

「ほうれん草を食べるとポパイのように強くなれるよ!」が当時の親やオトナたちの合い言葉になるくらい、ほうれん草はカラダにいいという概念がポパイによって日本中に浸透していたのです。


幼児の記憶なのでもう曖昧ですが、今のように年中ほうれん草が流通するほどのインフラがない時代でしたから、栄養的なことよりは旬の野菜として出回っているものをずっと食べていたのではないかと思います。
ほうれん草というと、むしろ「アクが強い。シュウ酸で結石になる」という母の注意の方が、子ども心に強く残っていたのは私だけでしょうか。


ところがそのサイトでは、「その秘密を握っていたのは、全米ベジタリアン協会!!? 菜食主義を広めるという陰謀があった」と書かれています。

ほうれん草は強くなるというより栄養が摂れて健康になるイメージだ。実は全米ベジタリアン協会という組織があり、菜食主義を広めるために宣伝キャラクターとしてポパイが作られたのだ。


全米ベジタリアン協会も、ポパイが生まれた理由も知らないのですが、なんだかここまでくると陰謀論陰謀論のような印象で、ちょっとふ〜んという感じ。事実はどうなのでしょう。



<「日本におけるヴィーガニズム」>


私も一時、にわかヴェジタリアンになったので、ちょっとヴィーガニズムを読んでみました。


その中の「日本におけるヴィーガニズム」の歴史がまとめられていました。

日本におけるヴィーガニズムには神道や仏教の影響を受けた獣肉食忌避の歴史を背景にした右派(民族主義的・プロライフ的)な流れも存在する。戦後の宗教右派に大きな影響を与えた生長の家の初代総長である谷口雅春が生命尊重の観点から肉食への反対を主張していた。

私が高校生の頃に、家にあった本で見かけた名前です。おそらく両親も、自分の都合の良い部分を選んで読んでいたのでしょう。


だが、日本におけるヴィーガニズムを思想運動として活発化させたのは1987年に創設されたアニマルライツセンターである。

なるほど、1987年あたりから日本では「ヴェジタリアン」が広がり出したのですね。
私は、それ以前に「背後カロリー」という思想からヴェジタリアンを知りました。



さて、「思い込みと妄想」のタイトルをつけた理由は、その「日本におけるヴィーガニズム」の冒頭に書かれた「動物に苦しみを与えることへの嫌悪から動物性のものを利用しない人」という一文でした。
もちろんヒトが食べるために動物を殺すことは苦しみを与えます。
でも、最近、植物を観察していて植物と動物の境界線について考えていたので、「苦しみを与えている」ことで拒否をするのであれば、ヒトは食べ物を得ることがとても難しくなってしまうなあと感じたのでした。
そこそこのところで折り合いをつけるしかないのかなと。


日本ではヴェジタリアンがまだ少なかった時代に、私は新しいことに挑戦していると思い込んでいた若気の至りに赤面し、鵺のような雰囲気を社会に広げた責任があると心が痛みます。
それが今日のタイトルの理由です。



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