記憶についてのあれこれ 136 <らい病とハンセン病>

予防接種とCDCに書いたように、1980年代半ば、ベトナム難民キャンプでハンセン病の治療プログラムも私の担当でした。

 

「チックグウ(予防接種)の部屋」として子どもから恐れられていた私のオフィスでしたが、大人もあまり好んでいなかったかもしれません。

朝、私のオフィスに来るということは、結核か性病あるいはハンセン病の治療薬を飲むということを意味していましたから。

それでも、結核の場合は患者数も多く、薬剤抵抗性の難治性の場合でなければ半年ほど飲めば治るという希望があるのか、人目を避けてというほどではなかった印象です。

ところが一人だけ、いつも配薬が終わるギリギリの時間にどこからともなくさっとオフィスに入ってきて、私から手渡された薬を目の前で飲んで、言葉少なく帰っていく若い男性がいました。今も、顔をはっきりと思い出せます。

彼は、ハンセン病の治療薬をもらいにきていました。

 

結核の場合、キャンプ内のクリニックでX線と喀痰検査で医師の治癒証明を出せましたが、ハンセン病の場合はなかなか治癒したことの証明ができないので、第三国(難民受け入れ側の国)で受け入れる人がいないと、いつこの難民キャンプから出られるか全く先が見えなかったのでした。

 

通常、半年から1年以内に受け入れ国が決まって第三国定住へと出発する人がほとんどだった難民キャンプに、彼は一人で何年も過ごしていたのでした。

 

ところで、昨日までの記事では「らい病」という言葉を使いましたが、現在はWikipediaに書かれているようにらい病は「それらを差別的に感じる人も多く、歴史的な文脈以外での使用は避けられるのが一般的である」とされています。

私が子どもの頃はらい病で、1970年代末に看護学生だった頃からこの難民キャンプで働いていた1980年代半ばは「ハンセン氏病」で、その後ハンセン病へと変化していったように記憶しています。

最近では、人名や地名のような固有名詞を疾患名にすることは、それも差別や偏見につながるという考え方になりつつあるようなので、また変化するのでしょうか。

 

このらい病あるいはハンセン病という言葉も、カンボジア難民と同じように、たくさんのやり残した宿題を抱えているような思いが湧き上がって来る言葉のひとつです。

 

*らい病について知ったのはいつ頃か*

 

小学生の頃、看護婦さんになりたいといいつつ、本当は何をしたいのかがなかったと書きましたが、一時期、明確にしたいことがありました。

それは、らい療養所で働くことでした。

娘に看護婦になってほしいと思っていた両親が喜ぶだろうと、そのことを伝えたら、なんとも気まずい沈黙があったことを子供心に感じ取ったのでした。

 

どこから「らい療養所」を知ったのかといえば、おそらく母が育った地域には牛窓に療養所があり、何かの折にその話を私たちにしたのだと思います。

何を「怖い」と感じるかにも書きましたが、一度その病気になると顔や手足が変形するなどさまざまな障害を負うだけでなく、一生療養所で生きていかなければならない人たちがいることに、私は感情が揺さぶられたのでした。子どもの頃から、本当にナイーブでどこか感情でのめり込みやすかったのだと思います。両親の戸惑った表情も、「自己犠牲を払って世の中に尽くしたい」という気持ちに火をつけたのかもしれません。

 

今、ハンセン病の歴史を読み返すと、1941年にはプロミンが開発されて「治る病気」になり、その10年ほど前の1931年には世界中が「脱施設隔離」の方向へ変化していたようです。

でも日本では1970年代に入ってもまだ、ハンセン病については隔離される病気という認識だったのかもしれません。

 

*多摩全生園を訪ねた*

1970年代終わり、看護学生の頃に多摩全生園を訪ねる授業がありました。

 

その訪問前の授業でどのようなことを習ったのかあまり記憶にないのですが、実際に広い多摩全生園の敷地内を歩き、そして入所されている方の家にあがらせてもらって、その生活の場でお話を伺った日のことを覚えています。

皮膚症状や手足の変形、そして視力を失った方など、ハンセン病にかかった方に初めてお会いしました。

らい菌は感染力が弱いこと、入所している方々は治療が終わっている方であることなどあらかじめ医学的な知識を得ていたことから、不安はありませんでした。

 

むしろ、感染力も弱いのに、目の前にいらっしゃる40代から50代ぐらいの方々が長い間、この敷地から外の世界へ出たことがないことに心が疼くものがありました。

私が訪ねた患者さんは療養所で出会い夫婦になったのですが、妊娠したものの中絶をしたこと、その後も子どもは作らなかったことを話された記憶があります。20歳前後の当時の私には、その意味の重さまで理解できていなかったことでしょう。

 

*多様な流れが一つになり、時代が変わる*

 

今、歴史と突き合わせて考えると、当時はまだ「患者の働くことの禁止、療養所入所者の外出禁止」などが書かれたらい予防法がいきていた時代でした。

ただ、実際に全生園の患者さんを訪ねたことで、子どもの頃に「らい療養所で働く」という決死の自己犠牲のような時代は、もう終わりかけていることは理解できました。

それから十数年後の1996年(平成8年)に、らい予防法が廃止されたのでした。

 

今も時々、なぜ看護学校ではあの授業を取り入れたのだろうと思い返した時、当時も医学的に何が正しいのかを広げ疾患に対する差別や偏見をなくそうという動きがあちこちからあったのではないか思います。

それを伝えるために、授業として取り入れてくれたことが、年をとるごとにとてもありがたいことだったと感じるのです。

 

そしてその数年後、私は難民キャンプでハンセン病の患者さんに薬を配る仕事をしていたのでした。

 

 

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