行間を読む 75 誰と出会うか、どんな言葉と出会うか

昨年11月に犬養木堂記念館を訪ねてから、犬養道子さんの本に出会った頃に読んだ本をもう一度読みたくなって買い求めました。

 

犬養さんの本で最初に読んだのは、「幸福のリアリズム」でした。

いつ頃からか、「自分が生きていることが現実なのか幻なのか変な感覚に囚われる」ことがあり、おそらくそれが青年期の発達課題の一つなのでしょうが、書店で題名を見ただけで何か答えがありそうで購入したのでした。

それから、長い長い、犬養道子さんの本との関係になりました。

 

今回購入したのは、「お嬢さん放浪記」。

裏表紙にこんな解説が書かれています。

「お嬢さん育ちに一本筋金をいれてもらいたい」ー 元総理の犬養毅を祖父に持つ27際は、単身欧米を渡り歩くことを決意する。アメリカで留学中にはサナトリウムで"起業"したことで逮捕状が出され、オランダでは洪水に遭遇し、フランスでは金欠病と高熱に苛まれるが、数々のピンチを「友情のパスポート」で乗り越え、見聞を広めていく。戦後間もない世界を自分の目で確かめた、セレブお嬢さまの奮闘記。

 

40年ほど前に読んだ時には、まだセレブという日本語は一般的ではなかったので使われていなかったかもしれない、と変なところにひっかかりましたが、現代からあの本を読み直すとこんな解説になるのですね。

ただ、私の世代でさえ「25歳までに結婚して第一子」の縛りが強い時代だったのに、戦後すぐの時代に女性が27歳で留学することだけでも、もはや「お嬢さん」という揶揄も必要がないほどのことだったのかもしれませんね。

 

*こんな言葉に出会っていたのか*

20代初めの頃から活字中毒でしたが、当時、図書館はまだあまり身近になくて、休みの日になると書店に立ち寄って本を購入していました。

あの頃は読むのが速くて、斜め読みのような感じでも乾いた砂に水が吸い込まれていくように本の内容を理解できましたから、この本はさらっと読み流していたのだと思います。

 

改めて読みなおすと、こんな人たちのこんな言葉に出会ったのかと、記憶に残っていない箇所がいくつもありました。

 

そのひとつに、留学したばかりの頃、バスの中でよろけた犬養道子さんの体を支えた20歳前後の女性との出会いがあります。

彼女は、「今年の留学生?」「お友達はたくさんできた?」そして「祭日に何処かに招かれていらっしゃるの?」と、もうじきくる感謝祭の日に留学生が一人ぼっちで過ごすことを気にかけて質問してきたのでした。

そしてその女性は、祖父の話をします。

自分の祖父も移民だった。新しい大陸に移って来て、ウエストンから程近い小さな村に住居を定めたが、腕一本自力一つで生活をひらくのは困難を極める仕事だった。はじめのうちは、小屋とも呼べないみすぼらしい「もの」の中に住んでいたが、労苦の甲斐あって、とにかく一人息子を学校にいれ、何とか食べてゆかれるところまでこぎつけた。そのささやかな成功の感謝のしるしに、自分の家では、祖父が死に、父の代となった今日でも、サンクスギビングの日には、家郷を離れている旅人や、ホームのない貧しい人のために、門戸を開くならわしとなっている。もし、まだ誰からも招かれていないのだったら、休暇の四日間を、家族の一人として自分たちと一しょに過ごしてもらえまいか。父も母も喜ぶに決まっている。

 

それこそ「どこの馬の骨ともわからない人」に心を開くことが、当時の私の周囲の社会ではないことだったので、ここの箇所はなんとなく記憶にありました。

 

記憶になかった部分はここからです。その女性、ジャンヌが父のことを話します。

父は線路工夫だった。祖父の資力が足りなくて、上級学校に行かれなかったため、こういう仕事しかみつからなかったのだそうだ。しかし彼は、「職人気質」がまだ生き残っているヨーロッパの人らしく、「人命を預かる鉄道線路」の仕事を誇りに思い、その仕事を最も忠実に果たすことを「出世」と思っていた。

おそらく、元首相を祖父に持つ「お嬢さん」がここを理解することも、相当、心の垣根のようなものを越える必要があったことでしょう。

 

そしてサンクスギビングの日は初雪でした。ジャンヌの父親が、「ミチコ、マサチューセッツの初雪を見にちょっとそこまで行きましょう」と散歩をしながら、犬養道子さんに話したことが書かれていました。

「あなたは何年アメリカにいるつもりか知らないが、とにかくこれからもアメリカを見るのです。その時にいつも一つのことを覚えていてください。アメリカとアメリカ人とはちがうということを。アメリカ人ほど、一概に総括出来ない国民は他にいません。ごらんなさい。私はフランス人です。アメリカの市民権は持っていますが、私の気性もものの考え方も私の中を流れる血も、フランスのものですよ。私の妻はアイルランド人です。妻の心はアイルランドの心です。私たちのとなりの家の人たちは、まだドイツ語を家の中では話すようなラインランドの人たちです。ミド・ウエストに行ってごらんなさい。あのへんの、地に足をつけた人たちはドイツ系です。南に降ればフランス系が多い、イタリア人丸出しの人々もいるかと思えば、スペインの血がまだ流れている人々もいます。これら全部をひっくるめて、よその人たちも我々自身も、"アメリカ人"とよんでいる。しかし、ほんとうのことをいえば、まだ純粋の"アメリカ人"は出来上がっちゃいないのです。ボストンの英国風な人たちを見て、あるいはニューヨークのウオール街の金持ちだけを見て、"アメリカ人は"と一口に言い切るような、そんな見方をしないように気をつけて下さい。"アメリカは"とは言ってもいい、もしそれがワシントンから公に発表される政策などを指す場合にはね」

そして、ジャンヌのお父さん、ブルナフさんはこう話しかけます。

「私は嬉しいのです」とブルナフさんは続けた。「あなたは私が親しく話し合えた最初の日本人です。私も、あなた一人を見て、すぐに日本人全部を判断するようなことはしませんが、しかし、日本人の中に、あの不幸な戦争の直後、一人の友達を得たということが嬉しいのです。今年はよいサンクスギビングになりました」

 

もし、犬養さんがバスの揺れでよろけなければ、ジャンヌやジャンヌの父と出会っていなかったことでしょう。

もしかすると、「お嬢さん放浪記」はほんとうにただのお嬢さんの放浪記になっていたかもしれませんね。

 

 

 

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