散歩をする 108 狩野川放水路

時間があると地図をながめているのですが、駿河湾あたりを拡大したり縮小したりしてながめていたら、狩野川から駿河湾へと山を超えて分岐している水色の部分を見つけました。

五反田川放水路と同じようなトンネルになった放水路に違いないと検索したら、狩野川放水路だとわかりました。

 

小学生の頃、伊豆へ旅行する途中で狩野川の付近を通りました。その時に、父がこの川が台風で氾濫して大変だったらしいという話をした記憶がかすかにあります。

狩野川下流は広々とした平野で、当時、山間部に住んでいた私には憧れのような明るさを感じたので、こんなにゆったりした平地で川が荒れ狂う様子は想像できなかったのでした。

自分の中の災害史を正確な年表にするに書いたように、私が生まれた頃から大きな水害が激減した時期に入ったこともあって、実感できないのも無理はないかもしれません。

それに対して、1958年の狩野川台風の翌年に起きた伊勢湾台風の災害派遣に行った父は、何を思いながら自分の子どもに狩野川台風のことを話したのだろう。

今となっては、父に確認することもできませんが。

 

地図を見ると、その放水路の堰側に国土交通省の資料館があるようです。

この放水路を見に行こう、コースが決まりました。

 

伊豆長岡から分流堰へ*

三島駅から伊豆長岡に向かいました。地図で見てもこの伊豆箱根鉄道沿線はまっすぐな用水路が四方八方に広がり、狩野川を中心に平野がひらけていることが想像できます。イメージ通りに、水田や畑が広がる田園風景から、伊豆長岡駅に近づくに連れて、両側に山が近づきはじめました。

 

駅から歩き始めると数分もしないうちに少し上り坂になって、狩野川の堤防があらわれました。鉄橋から分流堰が見えます。

堤防に沿って歩くと山の間に富士山も見え、そこへ狩野川が大きく曲がりながら流れていく風景は人の心をつかむものなのでしょう。堤防の近くに大きな旅館がいくつもありました。

 

ちょうどその狩野川が大きく湾曲した山に大きな三本のトンネルを掘って、反対側の江浦湾へと放水路が作られたようです。

事前に地図を見たときにも、この湾曲した流れに上流からの増水した水が流れ込めば、伊豆長岡市内へと洪水が広がることは想像できるようでした。

実際に歩いて見ると、湾曲した個所から下流は小高い山と山にはさまれてそれまでのゆったりした流れを阻むような地形でした。

地図で見ると、その部分にはそれほど長い放水路を作らなくてもトンネルを通せば、水を海に流せる場所であることがわかります。

 

狩野川放水路は、狩野川流域の水害を防止する治水事業の一環として造られた放水路で、静岡県田方郡江間村墹之上(ままのうえ)の狩野川左岸と沼津市口野の江浦湾を結ぶ。

 

1951年(昭和26年)6月に建設が着手されたが、完成を待たずして1958年(昭和33年)9月26日の夜に狩野川台風が伊豆地方を襲い、狩野川上流部に大きな被害が発生してしまった。それから7年後の1965年(昭和49年)7月に、着工以来14年の歳月と約700億円の巨費を投じて狩野川放水路は完成した。

 

工事の最中に水害に見舞われるとは、当時の関係者の方々の思いはいかばかりでしょうか。

 

分流堰を見たら今度は別の橋を渡って反対側の堤防を歩いてみようと思ったのですが、よくよく地図を見ると、1.5kmぐらい歩かなければ別の橋が無いようです。

もしかすると、川の幅が急に狭まるこの辺りでは昔から橋を作らなかったのかなと想像しながら、もう一度同じ堤防を歩いてさきほどの鉄橋を渡りました。

その橋のたもとに、狩野川台風の犠牲者の方々の慰霊碑がありました。

 

Wikipediaを読み返していると、父が狩野川台風の話をしてくれたのはこの放水路が完成して2〜3年ぐらいたった頃だったと思います。

再度、狩野川が氾濫することがあれば災害派遣に行く可能性があったことでしょうから、きっとこの放水路完成のことを父は知っていたのだろうと、記憶がつながっていきました。

 

資料館は閉まっていたようなので、そのまま帰りました。

職員の方が多忙の時には開いていないようです。平時の管理は何よりも大事ですからね。

 

 

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