散歩をする  116 新宮

今回の旅の関心は、水害の歴史を知ることと川と海をひたすらみることだったので、正直なところあまり宿泊地の歴史については不勉強なまま出発しました。

地図を見ると新宮市立歴史民族資料館が阿須賀神社のそばにあるので、着いたらまずそこへ行き、そのあと熊野川の河口沿いにある新宮城跡の丹鶴城公園に行き、市内中心部にある浮島の森に寄ってちょうど日没になるだろうくらいの大雑把なものでした。

 

地図では平坦な河口の街に見えますし、航空写真を見ても西側には小高い山が迫っていることは想像できたのですが、実際に歩き始めるとその高低差の中に街が造られていった歴史が見えてくるようでした。

 

駅から徒歩5分くらいのところにある歴史民族資料館に行くまでに、河口に向かっているはずなのに上り坂になっています。

平坦な街中を歩くなんて楽勝と思っていたのですが、この時にすでに長良川などを歩いて1万歩は超えていましたから、わずかの勾配もけっこうこたえました。

そして地図上ではこれまた平地に見えた新宮城跡に行くと、そびえ立つような断崖の上に公園がありました。

Wikipediaの写真「熊野川と新宮城」「出丸」を見ると、その高さがわかるのではないかと思います。

 

ここまで来て熊野川を一望できるところを諦めるのか、いや登るだけの体力があるだろうかとしばし葛藤したのですが、上から年配の方が降りてこられたので決心しました。

真冬だというのに汗が吹き出しました。山頂につくとそこには広い公園がありました。

目の前には熊野川が滔々と流れ、海岸沿いの砂州も見えますし、対岸の紀宝町と鮒田水門も見えます。

ただ、熊野川はそこから西へ2〜3kmぐらいで大きく蛇行し、その流れはすぐに山の間に見えなくなるのでした。

 

新宮城から降りてくるとすぐにでも休みたいという気分でしたが、まだ夕暮れで明るい時間だったので、少し市内を歩いてから夕食をとり宿泊場所へと向かいました。

 

 

熊野川河口を歩く*

翌朝は、10時半ごろのくろしおで勝浦へ向かう予定だったので、8時前には街を歩き始めました。

まずは熊野川に沿って堤防を歩きました。

市の中心部から10分ほど歩くと、じきに目の前に山が立ちはだかるようにあります。

そのふもとに熊野速玉大社があり、その鬱蒼とした鎮守の森を通って、そのあと歩けるところまで熊野川の堤防を歩きました。

というのも地図でみると、三重県側の対岸はずっと川沿いに道があるのですが、こちら側は途中までしか描かれていないのです。

地図には載っていない地元の人が使う道があるだろうと思っていたら、地図どおりに行き止まりになっていました。

それだけこの熊野川の河口近くの大きなS状の蛇行は、人を寄せ付けないほどの流れになるのだろうかと、目の前の静かに流れる川面からは想像がつかないものでした。

 

同じ道を戻り、今度は山沿いの道を歩いて神倉神社社務所を目指しました。

地図ではこの社務所神倉神社が少し離れたところに描かれています。長い参道はどんな場所なのだろうと興味がわいて向かいました。

遠いはずです。目の前に、石段を積み上げた参道が見上げるようにありました。先ほどの熊野川の堤防が行き止まりになった山の中腹に、その神社があるようです。

 

すでにそこまでで6000歩ほど歩いているので、まだ列車までの時間はあったのですが途中まで行く気力もなく境内の椅子に腰掛けました。

疲労感というよりは、熊野川河口の地形に圧倒された感じでした。

 

新宮での残り時間はわずかになってきました。

計画の段階で地図を眺めていた時に、まっさきに目に入ったのが浮島の森でした。水色の部分があり、水路が街へと流れています。そこにぜひ行こうと思っていました。

 

おそらくそこは谷津で湧き水があるのだろうと推測していました。

浮島の森に近づくと、やはりそういう地形に見えます。

公園のガイドセンターの方に「ここは谷津で、湧き水があるのですか」と尋ねると、予想外の答えでした。「新宮は昔、といっても大昔は海の底だった」と。

縄文時代前期の海進期には、海岸線が現在の新宮市街に大きく侵入して降り、現在の新宮市中心市街の全体が入り江状の湾(内湾)になっていた。縄文時代の中期から終わりにかけて、海岸線が後退を始めるとともに、池沼や潟湖からなる湿地帯が広がるようになった。

 

この沼沢は熊野川沿いの自然堤防や大浜沿いの浜堤あるいは段丘などによって囲まれていたために長く残り、近世初頭まではかなりの広さがあったと伝えられている。加えて、豊富な地下水の供給に恵まれていたことで、沼地で枯死した植物の遺体が腐敗することなく泥状に変化したことが泥炭層の形成に効果的に作用したと見られ、浮島を形成する泥炭は、この沼沢地で、形成されたものである。

 

 

帰宅してからもう一度地図を眺めて、なぜ線路が対岸の紀宝町の鵜殿駅から急に上流へと曲がり、熊野川を超えて新宮市へと入っているのかが地形とつながって見えるようになりました。

しかも鉄橋を超えると、あの新宮城跡の真下にトンネルが造られていて、そこを列車が通過して新宮へと入ることも。

 

新宮市を少し歩いただけでしたが、地形や自然、そして歴史に圧倒されることばかりでした。

そして、熊野川の川岸もまたゴミひとつない、清流でした。

 

 

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