散歩をする  117 森と清流と美しい海岸線と

旅の2日目は、新宮市を見たあと紀伊勝浦駅で降りました。

駅から漁港がすぐに見えます。

安房勝浦に比べて駅周辺は平地なのですが、駅の後方はすぐ山が迫ってきています。

紀伊勝浦は入り組んだ地形の奥まったところに港があり、安房勝浦はすぐに太平洋が目の前に広がっているのですが、昔、黒潮に乗って外房のあの地域に初めて到着した人たちは、やはりこの紀伊勝浦からの人たちだったのではないかと、どこか似ている懐かしさに勝手に想像しました。

 

観光客の多い活気のある場所から離れて、漁港周辺の小さな漁村を歩いてみました。

山がすぐそばまで来ているところに小さな集落があって、船泊まりがありました。お昼に近い時間だったので、漁船の周りは波が寄せる音だけが聞こえるくらいでした。

覗き込んでびっくり。船の周囲にもゴミひとつなく、海底が透けて見えていました。

もう少し歩いてみたかったのですが、次の列車を逃すと大変なことになるので駅に戻りました。

 

ここからはあの外房と似て、白浜まで南紀の海岸部を列車が走ります。さまざまに変化する海岸線と、清流そして山の風景が続きます。

各駅停車に乗ったので、ロングシートに座ってしまうと風景が見えにくいので、ずっと立って車窓の風景に目を凝らしていました。

 

太田川の歴史*

紀伊勝浦駅から太地を過ぎてしばらくすると、太田川があります。

どの川も本当に水辺がきれいなことが印象に強く、また一瞬で通過するので、帰宅してから熊野誌を読んで初めて太田川を知ったのでした。

 

太田川」(p.52~54 )という寄稿文がありました。

「昭和の太田川追想」によると、「県内でも稀な清流」で多くの魚類が生息していた太田川昭和12年頃、銅鉱石の採掘による鉱毒で天然鮎が絶滅したそうです。また「流域の灌漑用水として重要な役目を持つ太田川は、度重なる被害を起こして来た」とあり、昭和14年(1939年)の秋出水は記録に残る大洪水だったと、その時の様子が書かれていました。

私の一家は、やや高台にある空家に近隣相携えて避難した。私は当時11歳の子供だったので、すでに激流とかしていた県道は危険な状態のため、1人で渡ることはできず恐怖を覚えた。その空家も庭まで浸水し、脛まで浸ったまま減水を待ったものである。県道の一部は大きくえぐり取られ、通行不能になった。当時は、合併前であったが、上大田村と下大田村の70%以上の家屋や鶏舎、農小屋などでの浸冠水流出の被害に加えて、各所で堤防道路の決壊流出、さらに田畑への土砂流入や崩壊、家畜の溺死、特に養鶏村と呼ばれたこの村で、鶏の大量死は大きな痛手となった。このような洪水被害が、その後十一年間に八回以上も発生しているが、詳しい記録は残っていない。

 

県が橋を仮設しても何度も流されたことも書かれていました。

昭和16年頃に以前より強固な本橋が復旧した。その架設工事現場の 状況は今も覚えている。目の前にある実業学校まで、仮橋のない増水時は、市屋大宮橋を渡って大回りするため、三粁ばかりの登下校に約40分を要した。現太田橋は、近代土木工学の粋を集めた橋として昭和四十年三月に再度架け替えられた三代目のものになる。

 

ところで南紀と外房の風景は似ているのですが、 違うものの一つに木があるかもしれません。南紀も房総半島も、車窓から見えるのは常緑樹です。

ただし房総半島では、樹木名がわかならいのですが、白い幹が細長く伸びて先端に葉が生い茂っていて見た目はブロッコリーのような形です。

それに対して、南紀といえば杉や桧などです。林業が昔から盛んだというイメージがあり、たしか、私が小学生だった1960年代から70年代でもそう学びました。

 

ところが、この寄稿文の「水道涵養林と洪水」に、こんな箇所がありました。

第二次世界大戦の特需で、杉や桧材、燃料薪炭材としての雑木に至るまで、森林資源の乱伐による荒廃が続き、山は丸裸のはげ山(この頃出来た通用語)となった。戦時中の人手不足で伐採後の植林もままならなかったことはいうまでもない。戦後、落ち着きを取り戻した頃から植林が行われるようになったものの、五年十年で水源を涵養できる林地になろう筈がない。度重なる大洪水の原因は、このはげ山が集中的な豪雨を受け止められず、もろに太田川主支流に注ぐため、というのが定説化されていった。

 

ああ、やはり日本の山から木がなくなった時代があったのですね。

この南紀地方でさえも。

そして「はげ山」というのは、この頃から使われ始めたのですね。

 

現在は木がなくなった時代があったことが想像できない森と清流ですが、太田川の説明を読むと、2007年には水量が減少して水道水の塩分濃度が濃くなったこともあったようです。

 

いたるところ線路の近くまで山の急斜面が迫っているのですが、増水時の流木が積み上がっていたり、山の斜面が削られているような場所もありました。

ところがよく見ると、あちらこちらに木や土砂が流れないように大きな木を横たえた、おそらく山腹工(さんぷくこう)と呼ばれるものかと思いますが、手入れがされているのが見えました。

機械が入れそうにない斜面を、人の手で作ったと思われます。

 

今、この美しい風景が目の前にあるのも、何十年もの間のこの地域の歴史があったからなのですね。

 

 

 

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