事実とは何か  59 「 悪魔の証明」

「正しさ」との闘いに距離を置くで引用した2018年の新聞記事を読み返していて、こういうことを「悪魔の証明」というのかなと思いました。

古賀の代理弁護士によると、古賀は3月に世界反ドーピング機関( WADA)に夜抜き打ちの尿検査を受け、筋肉増強作用のある禁止薬物が検出されていた。8月のFINA国際水泳連盟)の公聴会では摂取していたサプリメントに成分表示のない禁止物質が混入していたとする分析結果を提出。検出されていた物質の資格停止期間は原則4年だが、重大な過失はないとして2年以下に短縮するよう求めていた。

しかし、FINAは「立証責任を満たすだけの信用性が認められない」として主張を退け、10月25日付けで4年間の停止処分を受けていた。

 

「悪魔の証明」という表現を、10年前にニセ科学の議論を読むようになって初めて知りました。

その当時の何の議論で使われたのかも覚えていないことと、なんとなくその意味が理解できる程度でそのままにしていました。

 

Wikipediaでは以下のように書かれています。

悪魔の証明とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔にたとえたものをいう。中世ヨーロッパのローマ法の下での法学者らが、土地や物品等の所有権が誰に帰属するのか過去に遡って証明することの困難さを、比喩的に表現した言葉が由来である。 

 そして最後に、「消極的事実の証明」とありました。

「ないことの証明」を、「悪魔の証明」とする使われ方もある。また、証明が困難でないことを『「悪魔の証明」には当たらない』と反論で使うこともある。 

 

ああ、そうでした。50mプールに一滴垂らした濃度で何かに効果があるというホメオパシーについて、「効果がないと証明しろ」と求められることについて使われていたような記憶が。

 

先日の藤森大将(ひろまさ)選手のニュースもそうですが、「どこに気をつけたらいいのかわからず、手の打ちようがない」としか言いようがない事態になっているのは、ドーピング検査というのはこの「悪魔の証明」に近いものを求められているからではないかと、この言葉を思い出したのでした。

 

身の潔白を証明するためには、「身に覚えがない」状況は許されないのが最近のドーピング検査かもしれませんね。

これからは毎日、飲んだり食べたりした物からキスをした相手の唾液まで、一つ残らず検体として保存しておかなければならないほどのことを求められているわけですから。

 

「常に限界を超えるところを目指し、節度を失ったスポーツ」になるに連れて、選手の健康と尊厳を守るはずのドーピング検査も節度を失っているのかもしれません。

 

こちらの記事で紹介した、「現代を生きるための科学リテラシーニセ科学問題と科学を伝えることなど)」(菊池誠氏)の、「ニセ科学とは言えないが危ない議論になりがちなもの」のカテゴリーに、私の中では反ドーピング運動が追加されるようになりました。

分野はニセ科学ではないが、怪しい説が飛び交う難しい領域の例。リスクや安全にまつわるものが多く、不確実性が高く、白黒はっきりした正解はない(トランス・サイエンスと近い)。 

 

何が問題か

・社会的損失

  経済的、時間的、人的

・社会の非合理化、思考の単純化

  ・二分思考:ゼロリスク幻想

  ・考えない世界:民主主義の基盤 

 

ほんとうに、「悪魔の証明」を求められることによる人的損失は大きいと思いますし、「ドーピング検査は正義」で思考停止してしまっているかのような風潮がちょっと怖く感じます。

 

 

 

 

「事実とは何か」まとめはこちら

古賀淳也選手とドーピング問題についての記事はこちら