事実とは何か  61 富士川はいかにできたか

ちょっとブラタモリのパクリのような、今日のタイトルです。

 

甲府盆地はハート形に近い三角形のような形をしています。

どうしてそういう形なのか考えたこともなかった、というよりも「三方を山に囲まれているから」と原因と結果を混同していたことを、ブラタモリの「甲府」の回で知りました。

3つのプレートが押し合ってあのような形になっているという説明に、またしても自分の立つ地面のことすら考えてこなかったとちょっと冷や汗が出る感じでした。

で、3つのプレートってなんだっけ、とすでに記憶の彼方に行ってしまったので検索すると、ユーラシアプレート、北アメリカプレート、フィリピン海プレートでした。

知識が身になるには時間がかかりますね。

 

山梨県にはこれまでも何度か遊びに行ったことがあるのですが、今回は地形という視点が増えたので風景がまた違って見えました。

 

中央本線甲府盆地に入る前に、笹子から甲斐大和まで長いトンネルがあります。

その山を境にして、笹子あたりの水は支流がまとまりあって相模川になり、甲斐大和あたりの水は笛吹川へと流れ込み、最後は富士川として静岡県へと流れていることが見えてきました。

 

甲斐大和からは線路が北のほうへと曲がり、勝沼、塩山をまわって、また一旦南へと曲がったあと甲府へと入っているのですが、今までは、ただ経済的に重要な場所を通過するためにそういう走り方になっているのだと思っていました。

 

甲斐大和からは山沿いに、甲府盆地が一望できる小高い段丘のような場所を線路が通っています。

地図を拡大してみると、塩山や勝沼の標高の低い市街地は今も水色の線がたくさん描かれています。

これが「古来から大雨による水害が発生する地域で、安定した定住は困難だった」、さらに遡るとかつては甲府盆地が湖であったという説まである地形に線路を通すということなのかと実感しました。

 

身延線富士川を見る*

 

甲府から身延線に乗ると、この路線も甲斐上野あたりから山側の段丘部分を通っているようでした。

地図で見ると鰍沢口あたりで、甲府盆地のあちこちからの流れが合わさって、川の名前も富士川になるようです。

ちなみに「鰍」はカジカと読むのですね。私のハンドルネームの割には、魚について知らないことを反省。

 

この鰍沢口あたりから、身延線富士川は平行しているのですが、ところどころ間に山を挟んで遠ざかったり、また流れが見えたりを繰り返していきます。

時には両岸が急峻な渓谷になったりひらけた河岸段丘が広がったり、その変化に身を乗り出しての約2時間半の旅でした。

支流も含めて、とても水がきれいでした。

 

身延線富士川に沿って山間部に入っていく場所は、ちょうど山と山の間ですから、たまたま水がその方向に流れて富士川ができたのだろうと思いました。

 

帰宅してから甲府盆地を読んでいたら、「人文的歴史」にこんな箇所がありました。

地質学的成因には地底湖説もあり、『甲斐国志』『甲州噺』など近世に成立した地誌類には甲府盆地がかつて湖底であったと考える湖水伝説が存在する。近世初頭に成立した『甲陽軍鑑』によ拠れば、太古の甲府盆地は湖であったが法城寺(廃寺)に祀られていた上条地蔵菩薩(国母稲積地蔵)の力によって盆地南部の山が切り開かれ、湖水を富士川に流したという。

 

甲府盆地の治水の歴史を知らなければ唐突感のある川の成因ですが、身延線に乗って通って見るとちょっとリアリティを感じる話でした。

 

こういう川の歴史ひとつとっても、地道な史実の検証の積み重ねを待つ必要があるのですね。

富士川はどうやってできたのでしょうか。

気になりますねえ。

 

 

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