川沿いに散歩をするようになって、自治体の境界線を超えるとガラリと風景が変わる状況があることを知りました。
先日の 霞川でも、途中までは両側にゆったりと歩道が整備され、散歩を楽しむ人とけっこうすれ違ったのには驚きました。
川の中も水草が植えられたり、コンクリートだけでなく石で整備されたり、洪水調整のための地下に作られた貯水施設も風景を損なわないデザインになっていたり、周辺の環境に配慮している様子も感じられました。
川に沿って史跡の説明や地名の説明板もあり、川を歩いているだけでその地域についても学ぶことができました。
整備されているからでしょうか、ゴミも少なく川もきれいに保たれていました。
川が生活の中で大事な存在であることを感じさせる「仕掛け」があると、自然と川に対する気持ちも変化するのかもしれません。
その遊歩道がばっさりと途切れ、どこを歩いたらこの川沿いを散歩できるのかわからず、車が多く歩道も白線が引いてあるだけの道にいきなり放り出された感じでした。
きっと、その地域の方々にも大切な川であることは変わりないと思いますが、目の前でこれほどの差ができてしまうことをどう受け止めていらっしゃるのか、気になりました。
*公共性が高いということは標準化するということ*
1980年代から90年代には民営化とか「小さな政府」といった言葉でさまざまな改革が行われました。
その全体像の議論はよくわからないのですが、周産期医療関連でもそれまで都道府県や国の事業だったのものが市町村に任されるようになったのもこの時期だったのではないかと思います。
たとえば、新生児訪問が都から区市町村へ委託されたのが90年代でした。
あるいは予防接種や妊婦健診の無料券など制度が充実してきた反面、自治体によって実際の手続きや運用が異なることもあって、「全国で同じ方法にしてくれたらいいのに」と思うこともしばしばあります。
民営化や小さな政府という考え方は権限を分散させた反面、公共性を標準化することを妨げてしまっているのではないかと感じることがままあります。
公共性とは何かを考える前に、「公共事業は無駄」で思考停止した時代だったと言えるかもしれません。
そして「標準化」の対語は「多様性」ではなく、連続したものが分断されるというニュアンスかもしれないと、散歩をしてふと思ったのでした。
一つの川の上流から河口まで、良いことは連続して整備されて、どの地域でもそれを享受できる。
そこに国の能力がおおいに発揮される。
次の時代の課題なのかな、と。
「境界線のあれこれ」まとめはこちら。