あちこちを散歩するようになり、日本のひろさを痛感するようになりました。
その時に、案外と小学校から高校までで学んだ退屈に感じていた知識やものの見方が役に立っていると思うこの頃です。
ただ最近は、私が子どもの頃にあった学問のイメージが変化してきています。
子どものころは、まだ世の中で解明されていないようなことを発見したり発明する超天才的な人が学問の頂点にいるようなイメージでした。
だから、私には無縁の世界のような。
その後、世の中がどんどんと専門分化するようになって、その分野の知識を正確に記憶している人たちの学術的な世界が学問のイメージに付け加えられました。
難解な専門用語や概念を駆使できる人たちとでもいうのでしょうか。
どちらかというと現実の疑問の中から少しずつこうした知識に近づいていく私のようなごく普通の頭の持ち主には、無縁の世界です。
現在は、こうした知識を瞬時に記憶できるような人たちが賢人の世界なのかもしれませんね。
そういう人たちも大切だと思うとともに、何かが足りないようなと感じていたことが、少し最近見えてきたような気がします。
*教科のあれこれ*
最近の小学生や中学生はどんな教科を習っているのだろうと、Wikipediaの教科を読んでみたら、「ヨーロッパの教科」がちょっと目から鱗でした。
ドイツには「事実教授」という分野があって、理科・社会・地理(郷土)・交通教育等の統合教科を指しているようです。
また、フランスでは「基礎学習期」と「深化学習期」というわけ方があるそうで、基礎学習期には日本と違って「共に生きる」「世界の発見」といった入り口から始まって、深化学習期に「文学・人文教育」として外国語や地域語、歴史、地理、集団生活へと展開されているようです。
ところ変われば教育も変わるのですね。
*災害教育を核にしたら・・・*
阪神大震災を機に看護に災害の視点が入り始めて、2009年から本格的に看護教育では災害看護を学ぶようになったようです。
災害の全体像や総論がようやく明文化され始めた時代に入ったとも言えるのかもしれません。
あちこちを散歩していると、必ずそこには水害や地震といった災害を機に歴史が大きく変化したり、その地域独特の産業や生活へとつながっていることが見えてきます。
災害といっても地域によって、あるいは災害の種類によってその史実は本当に一様ではないことを痛感します。
ただ私の子どもの頃と同じで、学校では災害教育というのはまだ教科としては認めれられていないのか、避難方法とかそういうあたりでとどまっているのかもしれません。
災害直後というのは生き延びるだけで精一杯ですから、なかなか熊野誌のように記録を残すことも大変なことだと思います。
発想を変えて、地域の災害史を「事実教授」のような核にし、そこから関心のある分野へと学んでいけると、もっと勉強したいと思う子どもも増えるかもしれないと妄想しています。
災害から気象や土木、あるいは生物に関心を持ったり、その基礎知識として数学とか物理にも関心が持てるかもしれません。避難所での生活や衛生に関心が出る人もあるでしょう。経済損失から経済に関心が出る人もいるかもしれません。防災や災害復旧のために必要な知識は、あらゆる知識につながっていることでしょう。
災害もまた日本の大事な資源にしてしまえば、「学校の勉強は役に立たなかった」とか「記憶力が優れている人が優秀」というコンプレックスからも少し解放されるかもしれませんね。
そして、災害を自分の世界観に利用する人たちを生み出さないように、災害に関する正確な知識を積み重ねた社会というのは安定感もあるのではないかと。
まあ、理想だけを追っても仕方ないのですけれど。
「正しさより正確性を」まとめはこちら。