記録のあれこれ 35 津久井湖記念館

宮ヶ瀬ダムと城山ダムを見てみようと思ったきっかけの一つが、地図を眺めていたら津久井湖畔に津久井湖記念館があったことでした。

 

記念館のサイトにはこんな設営がありました。

津久井湖記念館の歴史は、神奈川県が昭和28年に発表した城山ダム築造計画に始まります。城山ダム築造計画は、神奈川県と横浜、川崎、横須賀の3市による共同事業で、神奈川県はじまって以来の一大事業でありました。

 

私達水没地域住民は、県の計画に対し、自らを守るための水没者組織を作って、事業の撤回を要請し、8年半に渡ってダム建設反対を叫び続けてきました。しかし、昭和36年8月、私たちは神奈川県民の水需要に応えるため、先祖伝来の墳墓の地を離れる決心をしたのであります。

それは、多年にわたる補償交渉の最後に、水没者の将来における生活の安定、向上を図るため「城山ダム建設に伴う総合施策要綱」が県から示されたことにほかなりません。

このことにより、昭和36年11月城山ダム築造は工事が開始され、昭和40年3月に完成を見るに至りました。

そして1年を経た昭和41年3月、県によって当記念館が建設されたものであります。

 

当館の運営については、県と種々協議を重ねた結果、水没者の共済事業も合わせて「財団法人神奈川県津久井湖協会」を設立して行うことになり、この協会の設立準備が県庁企業庁と城山ダム移住者振興協議会とにおいて進められました。 

 

県や国土交通省の施設かと思ったら、「水没地域住民」が主体の記念館でした。

私が生まれる前に計画ができて、私が生まれる頃に建設が始まった。

ダムを見て回っていた90年代頃は、まだ国が一方的にこうした事業を進め、話し合いの過程の記録は残されていないようなイメージが長いこと私にはあったのです。

 

一方、宮ヶ瀬ダムのそばには愛川町郷土資料館と水とエネルギー館があり、おそらく経緯についての展示があるのではないかと思うのですが、今回は時間がなくて行けませんでした。

宮ヶ瀬ダムも1969年には計画が発表され、補償交渉に十数年ほどかけたのちに「計画発表から29年後の2000年(平成12年)に完成」(Wikipedia、「宮ヶ瀬ダム」)とあります。

それが、現在は「みうらの水道」として45kmも離れた三浦半島まで送水されているようです。

 

ひとつひとつのダムにはそれぞれの経過があり、その時の記録を残した施設が半世紀前にはすでに造られていたことはすごいことだと思いました。

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら