運動のあれこれ 29 「反対期成同盟」

高井戸には知人も住んでいたので、少し馴染みのある場所でした。

「昭和30年代から40年代ぐらいまで、この辺りはずっとさつま芋ばたけが広がっていたので、高井戸の駅から隣の駅まで見えた」という話が印象深く残っています。

 

1966年(昭和41年)、その田園風景が広がる地域に「突然、新聞の折り込み広告で」清掃工場予定地になっていることが住民に知らされたことに反発し、反対期成同盟が結成された経緯が東京ごみ戦争歴史みらい館のビデオで説明されていました。

 

「反対期成同盟」という表現に、ビデオを観ながら一瞬身構えました。

あの成田闘争の時代やそれ以前の学生運動のことを思い出させる言葉でした。

最初は都への「陳情」であったものが、1971年(昭和46年)に都が強制収用を始めようとしたところから「陳情から闘争へ」と変化したとのことでした。

期成同盟の委員長であった内藤祐作氏が、「その言葉(闘争)は好きではない」と語っていました。

 

また、反対運動が長引くにつれて、「もっと上手いやり方ができる」と当時の学生運動や政治運動の活動家たちが近づいてきたことに対して、内藤祐作氏は「どこからも闘争支援は受けない」と断り続けたそうです。

建設予定地に隣接するゴルフ場の鉄塔に見張り小屋を作り、都の職員が入ると石油缶を叩いて追い返し、強制収用に抵抗しながらも、都となんども交渉を重ねていったようです。

そうした運動も、住民の自主的なものだったそうです。

 

「期成同盟」というのは活動家を中心とする運動だと思い込んでいたのですが、「同じ目標の実現に向かって、結束して活動する人々の組織」(デジタル大辞泉)であることを、初めて今回知りました。

 

そして、「東京ゴミ戦争」というと、自分の土地に清掃工場を建てるなという杉並側のエゴのように受け止められやすいのですが、「ある日突然計画が知らされ土地の強制収用が行われる」というあの80年代から90年代の開発途上国の状況と同じ状況だったようです。

杉並区における建設案は環状八号線沿いに清掃工場を設ける1939年(昭和14年)の内務省告示をベースとしており、1966年(昭和41年)に東京都は清掃工場建設予定地として高井戸地域を選定した。しかし、地域選定理由が不透明で、事前に地域住民に対する協議等がなかったなどとして高井戸住民が反発し、杉並区の清掃工場建設計画は中断してしまった。これに対し東京都は、1968年(昭和43年)に土地収用法による強制収用手続きを開始し、1971年(昭和46年)5月には審議が終了して、東京都収用委員会の採決を待つ段階に入った。(Wikipedia「東京ゴミ戦争」の「都の対応」より)

 

1973年には江東区はゴミ収集車を検問し、杉並区のゴミ搬入を阻止する事態になり、杉並区の街中にゴミが置かれたままになったようです。

江東区の状況、都の状況、そして高井戸地域の住民の状況とこう着状態が続いた様子がビデオや資料から見えました。

 

こうした問題の「和解」とは補償問題がまず先にあるのかと思っていたのですが、「住民参加」「公害対策」「周辺の整備」が挙げられていました。

 

私が初めて高井戸清掃工場に隣接した高井戸プールへ行ったのは、確か1980年代終わりごろだったと思います。

ガラス張りの広々とした区民プールが、清掃工場の排熱を利用して作られました。

おしゃれな区民センターには図書館があり、隣に清掃工場があることも忘れるような場所で印象に残りました。

しばらくして、すぐそばに清掃工場を眺めるかのように高級マンションも建設されました。

 

ビデオの最後の方で、反対期成同盟の娘さんのインタビューがありました。

「(清掃工場が操業して)父が一番、嬉しかったのではないか。毎日煙突を眺めていた」と。

 

先代の清掃工場は、住民が利用できるのは隣接する区民センターのみでした。

建て替えられた現清掃工場は、工場内に資料館があり、見学もできます。そして、周囲も遊歩道として開放されて、ちょうどバラが美しく咲いていました。

 

住民による住民のための運動になったからこその資料館になったのだと理解しました。

資料館の整備には、建設反対住民団体を前身とする「杉並正用記念財団」と清掃工場側が協力して取り組み、2017年(平成29)年10月2日、「東京ごみ戦争歴史みらい館」として開館した。

Wikipedia、「東京ごみ戦争歴史みらい館」 )

 

 

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