境界線のあれこれ 89 汽水域

ここ数年、潮の満ち引きで水位が変化する河口に近い川の様子 を眺めるようになり、時間帯によりその塩分濃度が変わる水の中でどうやって生物は生きているのだろうと不思議に思うようになりました。

といっても小学生のような感想だけで、そこから深く正確な知識への道のりはあまりにも遠いことがわかるだけに、何から勉強したらよいのか、素人の私は何を知ればよいのか見当もつきません。

 

今年になって、汽水域で生きる生物を中心に展示している博物館を訪ねる機会がありました。

 

一つは、三面川イヨボヤ会館で、鮭の産卵から成長して三面川に戻ってくるまでの生活史が展示されていました。それ以外にも、三面川の河口付近に生息する魚の説明もありました。

もう一つは、相模川の上流から下流までの水生生物を展示しているふれあい科学館です。

 

海から汽水域、そして川と、塩分濃度が違う水にどうやって適応して行くのだろう。

その全ての場所で生きることができる鮭は、どんな体の仕組みがあるのだろう。

プールの水に慣れた私は、少しでもしょっぱい水が口に入ったらむせこみそうです。もうオープンウオーターで泳ぐことに挑戦する気力もないので、どんな水でも泳げる魚の気持ちを妄想しています。

 

植物も通常、塩分があることで枯れてしまうのに、なぜ海水や汽水で育つ多様な水草があるのか不思議です。

時間帯によっては、海の水が多くなったり少なくなったり水自体が変化する中で、どうやって生きているのでしょうか。

 

*「八郎潟・八郎湖の魚」*

 

祖父の田んぼから干拓地に関心がでて、関東近辺の干拓地や八郎潟を歩いてみました。

農地のためには淡水化が必要な一方、漁業には汽水域が必要。

長年、耳にする干拓地をめぐる問題について何をどう判断したらよいのかわかりませんでした。

 

もしかしたら、近代の干拓地では完全に海水と真水の境界線をつくってしまうので、汽水域とは何か、私自身があまりにも知らなさすぎたのかもしれないと最近は思うようになりました。

 

さて、八郎潟の全体像がわかる本がそろそろ出ないかなと思って検索していたら、なんと5月30日に「八郎潟・八郎湖の魚 干拓から60年、何が起きたのか」(杉山秀樹氏、さきがけブックレット)が出版されていることを見つけました。

なんという偶然でしょうか。

1957(昭和32)年に国営干拓事業が始まり、1961(昭和36)年防潮水門が設置され、魚が海水と淡水を自由に移動していた「八郎潟」は、内側(淡水)と外側(海水)に分断されて現在の「八郎湖」になった。それから約60年経過し、何が変化し、何が変化しなかったか。この本は魚類図鑑であると同時に、干拓の経過を魚類から見たものだ。(「はじめに」より)

 

ああ、すごい。

魚の側からこの変化を観察し続けている人たちがいたのですね。

汽水域について、この本を手掛かりに学んでみようと思いました。

 

 

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