行間を読む 79 飯田線の歴史

数分歩いただけで汗が吹き出すような気温の中、飯田線のあちこちで保線工事が行われていました。

単線で片側は山や崖の斜面だったり、あちこちから湧き水や川が天竜川へと向けて流れ落ちるような状況で、厳しい天候でも安全のために働く方々に、心の中で頭を下げていました。

 

驚くのは、道路がないような渓谷の途中でも、保線工事をしていました。

あとで地図で確認しても、道路は描かれていません。作業用道路で途中まで車で来て、あとは徒歩で山中に入るのでしょうか。

 

日本のあちこちで、こうして毎日、全ての線路が整備されていることを実際に見る機会が増えました。

そして日本だけでなく、「人命を預かる鉄道路線」の仕事を誇りに思い、その仕事を最も忠実に果たすことを「出世」と思う人たちで、世界中の鉄道が維持されているのですね。

 

飯田線とは*

 

Wikipedaiの飯田線によれば、飯田線の開業は1897年(明治30年)に開通し、全線開通はちょうど40年後の1937年(昭和12年)とあります。

開業・ダム建設輸送・戦時国有化・国鉄分割民営化と、折々の時代の要請の中で愛知県、静岡県、長野県に跨る険しい山岳地帯を貫き全通を果たし、現在も東三河天竜・中南信の都市農山村を結ぶ線路。起点の豊橋から終点の辰野駅を経て長野県の上諏訪市まで各駅停車で直通する列車もあり、豊橋駅から辰野駅までは約6時間かかるが、一度も乗り換えることなく行くことができる。  (「概要」) 

 

帰宅してから改めて天竜川の歴史を読むと、あの険しく水害が多い地域にダムや鉄道を建設するまでの長い歴史や、その後のあらたな治水事業の問題や時代の変化に圧倒されています。

 

三河川合駅天竜峡駅間*

 

Wikipediaの「飯田線」のなかで、特に印象的だったのが「三河川合駅天竜峡駅間」の箇所でした。

三河川合駅天竜峡駅間は三信鉄道によって開通した。鉄道会社が設立されたのは、鉄道が投機の対象となっていた1927年(昭和2年)であり、路線測量はその翌年4月から開始された。測量には、アイヌ民族測量士で山地での測量技術に長けた川村カ子トらが高級で招聘されて従事した。ところが、1929年(昭和4年)には昭和恐慌が起こり、経済情勢が急変。だが、筆頭株主が東邦電力と天竜電力という電力会社で、濃くなる戦雲の中、天竜川に国内エネルギー資源開発をもくろんでいた両社は、電源開発発電所建設など)の資材や労働力運搬のため鉄道を利用しようとして、1929年(昭和4年)8月の天竜峡駅門島駅間の着工後も工事は放棄されることなく、1930年(昭和5年)には南から三河川合駅出馬駅間も着工した。

 

しかし、中央構造線のもろい地層と、天竜川峡谷の断崖絶壁に阻まれて工事は難航。コスト削減のため、実際の土木工事は、ほとんど朝鮮半島から来た人々が担った。それでも会社の資金繰りは悪く、朝鮮人の労働者は労働争議に訴えてようやく不払いの賃金を一部だけ獲得するというありさまであり、もろい地層の工事にもかかわらず保安設備は劣悪で犠牲者が続出、恐れをなした朝鮮人労働者が現場から逃げ出し、近隣の農村に駆け込む事態も起こった。1931年(昭和6年)からとうとう工事は中断したが、三菱銀行などから多額の融資が得られ、この工事に生命をかけた飛島組の熊谷三太郎の工費を自分で立て替える熱意とあいまって、工事は再開された。このような紆余曲折と日本鉄道史に残る凄惨な工事の末、最後の大嵐駅小和田駅間の開業でこの区間が全通したのは1937年(昭和12年)である。 

 

最初、「川村カ子ト」を「カト子」に読み間違えたので、当時アイヌの女性測量士がいたのかと驚きました。

川村カ子ト(かねと)氏だそうです。

1893年明治26年)のお生まれですから、「鉄道人夫として測量隊の手伝いをするなかで測量を学び、やがて測量技手試験に合格」した頃は、ちょうど物理測地学の発展と写真測量術の開発の時代に入る頃で、時代の大きなうねりの中で測量を学んだのかもしれません。

 

 

飯田線の工事にも、多数の朝鮮の方々が過酷な状況で従事されたのだと知りました。

上記の「川村カ子ト氏」のWikipediaの記事の「文献・資料」に、「三信鉄道工事と朝鮮人労働者ー『葉山嘉樹日記』を中心に」という論文がリンクされています。

同じ頃、日本人もまたフィリピンのベンゲット道建設のために出稼ぎに出ていました。

 

飯田線の一区間について書かれたわずか10行ほどの記事ですが、その行間には知り尽くせない多くの事実があることに、歴史を知るということはどういうことなのかますます戸惑うようになりました。

 

 

 

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