行間を読む 81 気仙沼線

地図で見ると、南三陸町の中心部を過ぎると気仙沼線はいったん西側にある志津川中央団地内を回ってから本線に戻るように描かれています。

私が乗ったバスは団地の方へは向かわず、そのまま右折して気仙沼方面へと向かったように見えましたが、何れにしても「鉄道」ではない「BRT(バス・ラピッド・トランジット)」に置き換えられていることが地図上の線路を描く線からも読み取れます。

 

柳津から南三陸町までも、途中までは元の線路の上を走っていることがはっきりわかるのですが、ところどころ新しいバス専用道路が造られたように見える場所もありました。

気仙沼線全線がBRTになったということは、相当なダメージがあったからなのでしょうか。路線距離は72.8kmもあるようです。

 

Wikipedia気仙沼線の「東日本大震災以降」に、その状況がまとめられていました。

2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)では全線が不通となった。特に地震による津波陸前戸倉駅、志津川駅、歌津駅陸前港駅、陸前小泉駅、小金沢駅、最知駅、松岩駅、南気仙沼駅が消失、津谷川橋(気仙沼市本吉町陸前小泉・本吉間)が落橋、各所で路盤・築堤が流出(消失)するなど、沿岸部を通る陸前戸倉南気仙沼間は壊滅した。同年4月29日には前谷地・柳津間が復旧したが、残る区間の復旧は自治体の復興計画において路線の変更があるために年単位になることをJR東日本は明らかにしている。

 

*南三陸から気仙沼へ*

バスラピッドトランジット」という名前の通り、一部をのぞいてはバス専用道路を走るので、信号で止まることも無く、まばたきを惜しんで車窓の風景を見ていましたが、あっという間に通り過ぎて行きます。

メモがわりの写真も何枚かは撮ったのですが、南三陸町からは生活や通勤・通学で利用されている方々が増えたので、震災の痕を撮すことがためらわれました。

途中で、なんとかメモしたことを頼りに記憶を呼び起こしながら、帰宅してから地図を辿ってみました。

 

南三陸町を出ると、震災で残ったと思われるトンネルに入ります。

そこを出ると、川沿いに「清水浜(しずはま)駅」があり、そこも真新しい高い堤防が造られていて、沿岸部は更地になっていました。

再び坂道を登ると、ここからしばらくは内陸部の元の路線を利用したバス専用路線だったと思います。

その付近は、高い場所にあるためか、昔からの家や畑が見えました。

 

そして時々、海に近づくようにして川筋のまちがあり、白くて高い新しい堤防が見える風景です。まだまだ南三陸町が続いていていましたが、急に大きく開けた場所が見えてきて、気仙沼市に入りました。

そこではまだ大きな橋が建設中のようで、BRTは海岸よりも高い陸橋と橋を通過していたと記憶しています。

ここが、落橋した「津谷川橋」付近だと、後でつながりました。

 

気仙沼に入ったので、あと少しと思ったところ、ここでまだ気仙沼線の半分の地点でした。ここから気仙沼市内を海岸部に近づいたり、内陸部に入ったり、坂道を登ったり降りたりしながら気仙沼駅まで走りました。

 

真っ青な海と空、山の緑、そして谷津のわずかな場所にも青々と棚田があり、あちこちの咲いているノウゼンカズラのオレンジ色とオニユリの白さが映えて、車窓の風景は美しいものでした。

バスの中までユリの香りが漂ってきました。

 

気仙沼というと大きな漁港を中心にした海沿いの街のイメージだったのですが、とても広く、さまざまな街の顔がありました。

そして終点の気仙沼の駅は小高い場所にあり、漁港のある場所へはぐんと坂道を降りて行くようです。

 

*災害によって始まり、災害によって変化する路線*

 

Wikipediaの「気仙沼線」の「歴史」を読んで、この路線が明治時代に計画された経緯を知りました。

三陸地方沿岸に鉄道を敷設する構想が生まれたのは、1896年(明治29年)である。この年の6月に明治三陸地震が起こり、大津波によって死者が2万人以上に達するなど三陸地方沿岸は大きく被災した。この時に災害復旧の一環としてこの地域に鉄道を敷設する構造が生まれたが、具体的には進展しなかった。

 

なかなか鉄道が実現することがないまま、再び大きな地震津波がきっかけで、気仙沼線の計画ができたものの、実現したのは戦後に入ってからだったようです。

1933年(昭和8年)3月、昭和三陸地震が発生し、三陸地方沿岸はまたも大津波に襲われた。この時に、災害復旧の一環として再び鉄道の建設に焦点が当たったが、鉄道敷設法では本吉から前谷地に至る経路と田尻に至る経路の二つが記されており、これが問題となった。

 

1935年(昭和10年)、鉄道省気仙沼から前谷地に至る鉄道路線の建設を翌年から着手することに決めた。しかし、1936年(昭和11年)、着工を目前にした時期に再びルート問題がにわかに降って湧いた。(中略)

気仙沼線の工事は予算714万2000円をもって気仙沼から南へ向けて進められたが、1937年(昭和12年日中戦争の勃発によって工事は中断し、1939年(昭和14年)に再開するも、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に再び中断した。戦時中まで工事が行われていたのは、大谷鉱山の地下資源を気仙沼線で輸送することが考えられていたためと推測されている。

 

終戦後の1946年(昭和21年)、本吉郡4町13村と登米郡および桃生郡の関係町村は「三陸鉄道促進期成同盟会」を結成し、鉄道工事の再開を求めて請願や陳情を始めた。しかし、戦後すぐのこの時期は既成線の復旧が急務とされていた。1952年(昭和27年)にはBクラス着工線として気仙沼線に追加予算が当てられ、1953年(昭和28年)に工事が再開された。

 

そして念願の鉄道開通から半世紀後に、列車はバス輸送へと変わったのでした。

地震津波、そのたびにこの地域の人や物の移動が大きく変わらざるをえなかったのでしょうか。

 

あのリアス式海岸の複雑な地形に気仙沼線が開通した当時は、夢のような交通手段として待ち望まれていたのだろうと、私が生まれる数年前ぐらいの時代を想像しました。

列車が走っていた時代に乗って、車窓の風景を見てみたかったですね。

 

 

地図で偶然見つけた北上川河川歴史公園から、期せずして気仙沼線の歴史を垣間見る散歩となりました。

 

 

 

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